松井秀喜は大河ドラマ・甲子園に欠かせない千両役者だった 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
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松井秀喜は大河ドラマ・甲子園に欠かせない千両役者だった

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第74回(1992年)大会2回戦の明徳義塾戦。星稜の主将で4番松井秀喜は5回に敬遠され、舌を出した

第74回(1992年)大会2回戦の明徳義塾戦。星稜の主将で4番松井秀喜は5回に敬遠され、舌を出した

打席で構える松井の後ろ姿は、すでに貫禄があった

打席で構える松井の後ろ姿は、すでに貫禄があった

第61回(1979年)3回戦星稜―箕島。延長16回裏箕島2死、箕島の森川康弘の邪飛を捕球しようとした星稜の一塁手加藤直樹は人工芝の境目に足をとられて転倒。直後に左中間本塁打により同点となる

第61回(1979年)3回戦星稜―箕島。延長16回裏箕島2死、箕島の森川康弘の邪飛を捕球しようとした星稜の一塁手加藤直樹は人工芝の境目に足をとられて転倒。直後に左中間本塁打により同点となる

第74回(1992年)2回戦星稜―明徳義塾。9回表星稜2死三塁、松井秀喜が5打席連続で敬遠された直後、グラウンドにメガホンなどが投げ込まれ、星稜の選手やボールボーイたちが片付けに走った

第74回(1992年)2回戦星稜―明徳義塾。9回表星稜2死三塁、松井秀喜が5打席連続で敬遠された直後、グラウンドにメガホンなどが投げ込まれ、星稜の選手やボールボーイたちが片付けに走った

 100回目を迎える夏の甲子園が8月5日、開幕した。これまでも球史に残る名場面やヒーローが誕生してきたが、強打者ながらバットを1回も振らずに伝説となった選手がいる。そう、星稜の松井秀喜だ。開会式の始球式を務めた松井、そして記念すべき大会の開幕ゲームに登場する星稜を振り返る。

【写真】高校時代からすでに松井の後ろ姿には貫禄があった

●高校野球史上3人いた怪物の1人、松井秀喜

 いかつい体、鋭い眼光、打席で発散する迫力。公式なものではないが、高校野球史上で怪物と称されたのは江川卓と松坂大輔、そしてこの松井秀喜しかいないのではないか。しかも、“ゴジラ”である。1992年の選抜で、ラッキーゾーン撤去後の第1号をたたき込んだ松井はその夏、ど迫力をまとって戻ってきた。石川大会では、満塁ホーマー含む13打数8安打8打点。野手のグラブをはじき飛ばすような二塁ゴロが失策と記録され、「あんな打球、捕れないよ」と野手への同情を誘ったほどだ。甲子園では、あわや……の当たりを放って1回戦を突破し、明徳義塾(高知)戦で喫した5敬遠……。組み合わせ抽選で、初戦を勝ち上がると次の対戦が明徳義塾となるクジを引いたのが主将の松井。語り継がれる伝説は、知らぬ間に本人が演出していたわけだ。

●甲子園の千両役者「星稜」

 星稜に山下智茂監督が就任したのが1967年。72年夏の初出場以来、星稜と対抗するライバルがしのぎを削ってきた。70~80年代の20年間の夏の出場回数は星稜が8、金沢が4。90年代は星稜6、金沢3。2000年代は金沢4、遊学館3、星稜と日本航空石川が1。10年代は星稜と遊学館が3、金沢と日本航空石川が1回ずつ。この4校以外となると、00年の小松工までさかのぼる。4私学のうち春夏連続出場があるのは星稜と金沢だが、春夏連続にはおもしろい逸話がある。1948年、金沢三中が県勢初の選抜出場。その直後、学制改革に伴い、県では転学の自由を認めた。すると金沢三中の主力は、共学になる金沢三(金沢桜丘)ではなく、男子校の金沢一(金沢泉丘)を選択。突然強くなった金沢一はその夏、代表に。学校は違えど、実質、春夏連続出場なのだ。

 ともあれ、実績では星稜が一歩抜けている。甲子園4強は星稜だけで、ベスト8にしても戦前32年の石川師範と、2002年初出場の遊学館だけだ。星稜はまた、1995年には北陸勢初の大旗に迫る準優勝があり、なんといっても全国区になったのは79年の3回戦、箕島(和歌山)と演じた延長18回だ。高校野球の宝石ともいえる試合。92年、別の意味で球史に残る「松井秀喜5敬遠」が箕島戦と同じ8月16日というのは、星稜の特異日なのか。星稜は、14年夏の石川大会決勝で、9回裏の8点差大逆転もあり、大河ドラマ・甲子園に欠かせない役者だ。(楊順行)

※「完全保存版夏の甲子園100回 故郷のヒーロー」より抜粋

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