井上光晴(いのうえ・みつはる)/1926年、福岡県生まれ。小説家。社会の弱者を描く小説を多数執筆、『死者の時』『地の群れ』など、代表作多数。大腸がんを発症し、92年、66歳で死去。その晩年の様子は、原一男監督によるドキュメンタリー映画「全身小説家」に描かれている。写真右。娘である井上荒野(左)が小説家としてデビューした28歳のとき、新聞の取材で。「お父さんを追い越す自信はありますかと聞かれ、私のほうが長生きするからと答えたのを覚えています」(井上荒野)
井上光晴(いのうえ・みつはる)/1926年、福岡県生まれ。小説家。社会の弱者を描く小説を多数執筆、『死者の時』『地の群れ』など、代表作多数。大腸がんを発症し、92年、66歳で死去。その晩年の様子は、原一男監督によるドキュメンタリー映画「全身小説家」に描かれている。写真右。娘である井上荒野(左)が小説家としてデビューした28歳のとき、新聞の取材で。「お父さんを追い越す自信はありますかと聞かれ、私のほうが長生きするからと答えたのを覚えています」(井上荒野)
22、3歳の頃。「父と娘」がテーマの取材を受けたように記憶しています
22、3歳の頃。「父と娘」がテーマの取材を受けたように記憶しています
父は必ず丸善のノートに小説の原稿を書き、母がそれを原稿用紙に清書していました。行き詰まると、書くボールペンの色を替えていたようです。私もデビュー後しばらくは同じ丸善のノートを使用して執筆。写真手前が父の『心優しき叛逆者たち』の原稿を書いたもの、奥が私が『もう切るわ』を書いたもの
父は必ず丸善のノートに小説の原稿を書き、母がそれを原稿用紙に清書していました。行き詰まると、書くボールペンの色を替えていたようです。私もデビュー後しばらくは同じ丸善のノートを使用して執筆。写真手前が父の『心優しき叛逆者たち』の原稿を書いたもの、奥が私が『もう切るわ』を書いたもの
私が20代のとき、カープファンだった父の誕生日にプレゼントしたラジオ。それまでは何をあげても「こんなもの俺が喜ぶと思うのか」などとけなされていたのに、このラジオはとても気に入ってくれました
私が20代のとき、カープファンだった父の誕生日にプレゼントしたラジオ。それまでは何をあげても「こんなもの俺が喜ぶと思うのか」などとけなされていたのに、このラジオはとても気に入ってくれました
井上荒野(いのうえ・あれの)/1961年、東京都生まれ。小説家。2008年、『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞など受賞多数。近刊に『その話は今日はやめておきましょう』がある。現在、父親と一時期不倫関係にあった瀬戸内寂聴氏と、母親との3人をモデルに、女性2人の1人称で描く小説「あちらにいる鬼」を「小説トリッパー」に連載中
井上荒野(いのうえ・あれの)/1961年、東京都生まれ。小説家。2008年、『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞など受賞多数。近刊に『その話は今日はやめておきましょう』がある。現在、父親と一時期不倫関係にあった瀬戸内寂聴氏と、母親との3人をモデルに、女性2人の1人称で描く小説「あちらにいる鬼」を「小説トリッパー」に連載中

 優しかった、面白かった、頼もしかった……、人それぞれ、父親に対する思いを抱えている。どれも自分をつくってくれた大切な思い、でも、面と向かって直接伝えるのは難しい。週刊朝日では、「父の日」を前に、8人の方に今だから話せる亡き父への思いを語ってもらった。その中から、井上荒野さんが語った父・井上光晴さんのエピソードを紹介する。

*  *  *

 父は、多くの女性に好かれました。作品からは想像もつかないけれど、女たらしっていうよりは、女好き(笑)。

 瀬戸内寂聴さんと父がつきあっていたことも、薄々とは感じていましたが、はっきりと認識したのはここ数年です。私が5歳から12歳になるまでの7年間、2人は不倫関係にあり、寂聴さんが出家した理由のひとつに父との関係にけりをつける意味もあったのだと、最近知りました。

 寂聴さんは、気がつくと尼姿で家にいらっしゃるようになっていて、母ともとても仲がよかった。私にとっては親戚みたいな感じでした。父は1992年に、母は2014年に亡くなっていますが、2015年、体調を崩した寂聴さんから電話をもらって訪ねたところ、ずっと父の話ばかりなさるんです。その姿を見て、ああ、本当に父のことが好きだったんだなあと、グッと来ちゃった。

 じつは、父と寂聴さんの関係を小説に書かないかという提案を編集者からされていたのですが、センセーショナルなものは嫌だと断っていた。でも、父の話をする寂聴さんを見ていたら、私が書かなきゃいけないような気がしてきたんです。寂聴さんも書きなさいと喜んでくださったので、「あちらにいる鬼」というタイトルで書きはじめました。寂聴さんにお話を伺うのはもちろん、作品や年表などの資料を調べたり、自分の知っていることを交えながら想像したりして、寂聴さんと母を思わせる3人の女性を、一人称で交互に描いています。

 父は寂聴さんとつきあっているときも、さらに別の女の人ともつきあっていたそうです。週末になると父がどこかへ出かけていって、翌日の昼過ぎに帰ってくるというのが私の家の日常で、そんなものだって私も妹も思っていた。両親の仲もよかったんですよね。そういう家庭で育ったせいで、幸せとか不幸は相対的ではなく絶対的なものだと私は考えるようになった。それは小説家としては、いいことだと思っています。

 ああ、父の娘だな、と感じるのは、やはり小説を書いているとき。特に、これはという展開を思いついたときですね。父は自分の経歴も作ってしまったくらい(笑)、お話を作るのがうまかったから。

 そもそも私が小説家になったのも、父の目論見のような気がします。家には子どもの本がいっぱいあったんですが、それは父が編集者に送るように頼んでいたからなんです。おかげで小さい頃からとにかくたくさん本を読みましたし、最初は絵本の絵を描く人になりたいと思っていたのが、いつのまにか真似をしながらお話を書くようになっていました。

 それに、父には「人は何かしらやらなきゃいけない」と、小さな頃からずっと言われていました。それが唯一にして最大の教育だった。当時、女の子が一般的に言われていたような「いいお婿さんを見つけて早く孫を見せてくれ」というようなことは、絶対に言わなかった。むしろ、それがいちばんつまらない人生だって教えられたんです。自分の好きなことを見つけて一生懸命やれば、お金持ちになんかならなくていい、偉くなんかならなくていい、って。

 だから、私が小説を書きはじめたとき、父は本当に喜んでくれました。読んでいないような顔をしながら、いいところを見つけては褒めてくれた。けなすと私が書くのをやめるんじゃないかと思ったのかもしれません(笑)。デビューが決まったときなど、狂喜乱舞という言葉がふさわしい喜びようでした。私のインタビューが掲載された新聞や雑誌をすべてスクラップしたり……。当時はまだ自分に小説家として生きるという覚悟がなかったので、プレッシャーのほうが大きかったけれど、いま思えば、もっと父と小説の話をしておけばよかった。昔よりも父の小説の良さがわかるようになったいま、もしも生きていてくれたら、もっといろいろ話ができたのにと思います。自分はすべての賞を拒否するなんて言っていたけれど、実際はミーハーだったから、私の受賞をものすごく喜んでくれたんじゃないかな。

 父を思い出すとき、真っ先に浮かぶのは書斎にいる背中。ご飯できたから呼んできて、と母に言われて書斎を覗くと、書きかけの小説のフレーズをブツブツと口にしながら、うんわかった、って言う姿です。でも、ご飯が冷めるのが絶対に許せない人だったから、すぐに執筆を切り上げてダイニングに降りてきた。その点でも、私は父の娘だなと思います。私が、穏やかな夫と初めて泣いて大喧嘩をしたのは、天ぷらが冷たくなっちゃう、という理由でしたから(笑)。

週刊朝日 2018年6月22日号に掲載した記事に加筆