そうだなあ、敗戦で日本が焼け野原になった中で、角栄さんは土建屋として必死に働いて財をなして国会に出た。角栄さんは道路建設とか水資源開発など自ら33本の議員立法をなしとげた。いまどき一人で、自分の発想で、こんなに法律をつくるパワー議員はどこにいるか。まさしくこれは「戦後」という時代の「創業」だった。「戦後革命」といってもいい。

 そして戦後70年、秀征さんは、いまや2世3世の議員が多数、「創業」の情熱も活力も乏しい、と指摘する。こんな政治でいいのかという国民の不安が田中角栄が思い出される理由だろうというのである。東日本大震災の復興ままならず、福島原発の爆発の処理もいまだし、いわば「第二の戦後」かもしれない現在、角栄が生きていたらと思う人もいるだろう。

 もうひとつ言っておきたい。角栄をつくったのは、角栄の旧新潟3区の民衆である。角栄の選挙組織「越山会」には実は元社会党員、元共産党員が多くまじっていた。戦前、地主に抗して小作争議が多発したこの地域、戦後の農地解放で自分の土地になると、道をつくり水路を整備し、米増産に励んだ。国や県から予算を分捕ってきて農民を助けたのは角栄である。かくて、かつての反体制の闘士たちが続々と「越山会」に鞍替えした。

 まだ若いころの私は、そんな角栄の下部構造を知りたくて、朝日新聞新潟支局に転勤し、「越山会」のルポを書いた。「越山会」は民衆の「草のとりで」だった。ルポの核心は、私の著書『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』にも盛り込んでいる。

 かくて田中角栄ブーム。いったいなぜ、と自民党の谷垣禎一幹事長に聞いてみた。

「先の展望をたてにくい世の中だからね。一億総活躍をめざしても、若い人は不安だろう。みんな、角栄さんに『坂の上の雲』を見ているんじゃないか」

 田中角栄。青空に浮かぶ一片の白い雲。(構成 本誌・上田耕司)

週刊朝日 2016年4月15日号より抜粋