父が子どものころは、まだ藩主時代の宝物がたくさん残っていました。虫干しのときには、延俊が拝領した秀吉が着用していた鎧(よろい)や太刀数十本などが広い座敷にずらりと並んだそうです。

 ところが、祖父・俊哲(としあき)が何件もの連帯保証人になっていたことがたたって、大正時代の終わりごろに一斉取りつけにあい、屋敷も宝物も人の手に渡ってしまいました。一家は日出町を出て京都へ出ましたが、私が生まれて間もなく東京へ移りました。

 祖父の代で日出を離れましたが、木下家と日出町には今でもつながりが残っています。4月は3代・俊長がまつられている横津(よこづ)神社の大祭、5月は町主催の「城下(しろした)かれい祭り」、10月には日出藩の守護神だった若宮八幡宮の例大祭。これらの祭りに木下家当主として出席するため、年に3、4回は日出町へ帰ります。

 木下家の菩提寺(ぼだいじ)・松屋寺(しょうおくじ)での供養と墓参りでは、同じ日に旧家臣の集まり「暘城会(ようじょうかい)」の総会もあり、毎回70人くらいが出席して酒宴となります。

 日出町では誰も「木下」と呼んではくれません。「殿さま、おかえりなさい」と言われます。ありがたいことと頭が下がります。

 こうした日出町との縁こそが、代々のご先祖さまからの贈り物かもしれません。

(構成 横山 健)

週刊朝日 2016年2月12日号