かつては数々のお宝が眠っていたが、いまではもう残っていない…(※イメージ)
かつては数々のお宝が眠っていたが、いまではもう残っていない…(※イメージ)

 豊臣秀吉の正室ねねの兄・木下家定の三男・延俊を初代とする木下家。かつては数々のお宝が眠っていたが、いまではもう残っていないそう。その理由を木下家19代当主・木下崇俊氏が明かした。

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 初代・延俊から数えて16代、最後の日出(ひじ)藩主となったのは曽祖父の俊愿(としまさ)です。夫人は綾子といい、公家の伏原(ふしはら)家の出身でした。娘のころは江戸城の大奥で最上位の上臈(じょうろう)として、徳川の姫君と同じ待遇を受けていましたが、実際の役割は姫君の身代わり役だったという話です。22歳のときに俊愿に嫁ぎました。

 嫁入りしたときは江戸時代でしたから、綾子は参勤交代を2度も経験しています。女性から見た参勤交代というのも珍しいですが、幸い、私の母が綾子から直接聞いていました。

 まず、日出から藩の船で大坂まで行きます。淀川をさかのぼって伏見あたりに出て、そこからは陸路。江戸まで、綾子は女物の駕籠に乗って行かなければなりません。駕籠には小箪笥(こだんす)が置いてあり、引き出しを開けるとお手玉などの遊び道具が入っていました。それでも、小窓を勝手に開けることもできず、何日間もずっと正座をしたまま駕籠に揺られるというのはかなり苦痛だったようで、「あれほど退屈なものはなかった」と話していたそうです。

 時代は明治に入り、木下家は子爵となりました。明治30年ごろ、日出城の二の丸には広大な屋敷があり、父の俊煕(としひろ)はそこで生まれています。当時まだ存命だった綾子が寝起きをする離れの家には、代々のご先祖さまをまつった大きな祭壇が置かれていました。

 父が10歳くらいのとき、祭壇の前で、曽祖母が語る木下家の秘密の言い伝えを暗唱させられたことがあったそうです。ほぼ毎日、言葉が身体にしみ込むほど完全に記憶するまで、くり返しくり返し暗唱したそうです。秀頼の子・国松が大坂の陣の後、日出藩に落ち延びたという言い伝えです。徳川幕府はなくなっているのだから秘密にする必要もないはずですが、昔気質の綾子は代々行われてきた方法で父に伝えたのでしょう。

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