木下家19代当主・木下崇俊「なぜか『豊冨』と名乗った初代」 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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木下家19代当主・木下崇俊「なぜか『豊冨』と名乗った初代」

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ご先祖さまとのつながりを感じることのできる場所が…(※イメージ)

ご先祖さまとのつながりを感じることのできる場所が…(※イメージ)

 徳川幕府から豊臣姓を名乗ることが許されていた秀吉の兄の血族である旧日出(ひじ)藩の木下家。19代当主の木下崇俊氏は、初代だけ「豊冨」と名乗っていたと理由をこういう。

*  *  *
 私は東京で育ちましたが、木下家が代々治めてきた日出藩のあった大分県日出町には格別の思いを持っています。「城下かれい」など魚はおいしいし、人も気候も穏やか。ゆっくりとした時間が流れる町には、ご先祖さまとのつながりを感じることのできる場所がいくつも残っています。

 日出漁港からゆるやかな坂を上っていくと、重厚な楼門(ろうもん)が目を引く若宮八幡宮に行きあたります。日出藩は、代々この神社を守護神としてきました。石畳の参道には、長年潮風を受けてきた古めかしい鳥居や石灯籠が立っています。歴代藩主が奉納したもので、よくよく見ると、それぞれに奉納した藩主の名が刻まれていることがわかります。

 例えば、9代の名は「豊臣俊泰」、13代なら「豊臣俊敦」と石灯籠に彫ってある。どれも木下姓ではなく豊臣姓を使っていますが、徳川幕府からの公式文書にも豊臣姓で通達されているものがあるくらいですから、江戸時代でも豊臣姓を名乗ることが許されていたのでしょう。

 ところが不思議なことに、初代・延俊が奉納した鳥居には、「木下右衛門太夫豊冨朝臣延俊」とあります。「豊臣」ではなく「豊冨」。石屋が字を間違ったとも考えづらい。恐らく延俊のときは幕府に遠慮をして、公然と豊臣とは名乗れなかったのではないかと思います。鳥居に深く刻まれた「豊冨」の文字を見るたびに、豊臣一族の木下家が、徳川300年を藩主としてよくぞ生きのびたものだな、と感動にも似た心持ちになります。


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