桂米丸 終戦間近「囁くようにだけど、日本はもうダメだねって話が流れていた」 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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桂米丸 終戦間近「囁くようにだけど、日本はもうダメだねって話が流れていた」

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「人生ってのは分からねえものだなと思ったね」(※イメージ)

「人生ってのは分からねえものだなと思ったね」(※イメージ)

 みんなを笑わせたい。面白い噺家になりたい。小学生の時、教室で披露した「寿限無」が落語家への道へと繋がった現役最高齢の落語家・桂米丸さん(90)。その熱は戦時中も冷めなかったという。

*  *  *
――のちに23年間にもわたって落語芸術協会会長を務めるようになる名人の落語生活のスタートは、小学2年の自習時間だった。米丸さんの落語熱の高まりに反比例して、家業は徐々に低迷していった。日中戦争が本格化して民間需要が激減していったのだ。

 あたしは昭和13(38)年に旧制の鎌倉中学(現・鎌倉学園高)に入学しました。家業の盛運もその頃まででしたね。太平洋戦争が始まった16(41)年には東京港が開港して、なんで横浜で下ろさなきゃならねえんだってふうになりましたもの。

 それでもあたし、中学でも人前で落語をやっていました。音楽の時間に歌の代わりに一席話して及第点。おかげでずいぶんと得しました。

 その中学時代、軍事教練ってのがありましてね。富士山の裾野で1週間もやるんです。行軍の教練で小休止になると「須川(本名・須川勇)!ここへ来て、落語やれっ」て。同級生が円陣組んでる真ん中で話して笑わして、「よしっ! 休憩終わり。前進!」なんて。あたしは喋ってたんで休めないもんで、ちょいと不満を言ったら、「須川、ご苦労さん。自転車で走って、先に次の所へ行って休んでろ」と。これまた落語の余禄です(笑)。

 それであたしは幸せだった。みんなの前で喋れて、みんなが喜んでくれて、何より自分が楽しい。将来は絶対に落語家になるぞとね──。

 中学は18(43)年に卒業したんですが、進路をどうしようかと悩みました。親父は士官学校や経理学校といった兵隊の学校へ行ってしまえばいいじゃないかなんて、軽く言ってましたけどね。冗談じゃない、そんなのは大エリートですよ(笑)。


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