藤井裕久元財務相ふじい・ひろひさ/昭和7年、東京都生まれ。東京高等師範学校付属中学校(現・筑波大学附属高校)で野球部に所属。昭和21年にチームは甲子園に出場するもベンチ入りできなかった。東京大学野球部では捕手。卒業後は、大蔵省(現・財務省)に入省し、昭和52年に参議院議員選挙に出馬し初当選した。細川、羽田両内閣で大蔵大臣を歴任するなど存在感を示した。平成24年、政界を引退。現在は講演活動などを行っている(撮影/写真部・加藤夏子)
藤井裕久
元財務相
ふじい・ひろひさ/昭和7年、東京都生まれ。東京高等師範学校付属中学校(現・筑波大学附属高校)で野球部に所属。昭和21年にチームは甲子園に出場するもベンチ入りできなかった。東京大学野球部では捕手。卒業後は、大蔵省(現・財務省)に入省し、昭和52年に参議院議員選挙に出馬し初当選した。細川、羽田両内閣で大蔵大臣を歴任するなど存在感を示した。平成24年、政界を引退。現在は講演活動などを行っている(撮影/写真部・加藤夏子)

 終戦からちょうど1年で復活した全国高校野球選手権大会。地方大会開始後に中止が決定された昭和16(41)年の第27回大会以来、5年ぶりの開催となったが、甲子園球場は占領軍によって接収されていたため、第28回大会は会場を西宮球場に移して開かれた。

元財務相の藤井裕久さん(83)は東京代表・東京高等師範学校付属中学校(現・筑波大学附属高校)の一員として西宮に乗り込んだ。ジャーナリストの邨野継雄と本誌・常冨浩太郎がそのときの話を聞いた。

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私はね、補欠のもう一つ下の食料調達係で行ったんです(笑)。恥ずかしい話ですが、どうせ初戦ぐらいしか勝てないだろうと、米を初戦の分しか持っていかなかった。お金もないし、東京で米を集めるのは大変だったんですよ。

 私たちが東京から列車に乗ると、同じ列車に一関中(岩手)が乗り込んできた。一関中の監督が「東京の野郎どものリュックを調べてこい」と言うんで選手が調べ、「ぶかぶかでした」と報告したという話があるんです。で、「それなら俺たちの勝ちだ」と。田舎の中学ですから、米だけは豊富だったんだね。

 その頃の新聞にはね、イチコロ組ってのが並べて書かれていた。1回戦でコロリと負ける組です。その筆頭に高師付中とあったけど、小倉中(福岡)に勝っちゃったんだよ。小倉には畑間っていう投手がいて、それを打ち崩したんだ。負けるはずだったんで、すぐに米がなくなっちゃって、奈良県に買い出しに行った。で、行ってみると「米なんていくらでもある」と言う。おまけに「肉もある」と。私らは肉なんて2、3年口にしたことがなかった。一体、食糧不足って何なんだと、世の中ってのは怖いなと思いました。レギュラーの口に入るだけの肉をもらってきたら、次もまた勝っちゃった。食料調達係には相当つらいことになったけど、結局準決勝まで行って浪華商(大阪)の平古場(昭二、慶大→全鐘紡)って投手に負けたんだね――。平古場とは、後に東京六大学で相まみえました。

 その食料調達中に、阪急電車の中で若い女性に抱きつかれたことがあります。抱きついてきてボロボロ泣くんです。そして「あなたたちの制服を死ぬまで見ることはできないと思ってた」と言うんです。女性は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の卒業生だったんです。女高師は高師付中と隣同士でしたから、私が着ていた制服が懐かしかったんだね。大阪で教職に就き、死を覚悟した戦中を生きてきたんでしょう。久しぶりに目にした制服に、平和を実感したんでしょうね。

 選手権大会に行って、平和の有り難さを象徴する二つの出来事に出会ったことになる。隠していた米が出てくる世間の仕組みと、若い女性が感情を隠さずに知らない男に抱きついてきたこと――平和って大事だなと思いましたね。

週刊朝日 2015年8月14日号より抜粋