「日本の60年代初頭のバンドやグループは、マスターがいてメンバーが従う形でしたが、加瀬さんはワイルドワンズを作る際に“縦社会”を一掃されたんですね。ビートルズやローリング・ストーンズがそうだったように、バンド=仲間という横並びにして、とても新鮮でさわやかでした」

 12弦ギターを取り込み、音の広がりも探った。人の魅力を引き出すのも巧みで、その手腕は沢田研二の歌の作曲やプロデュースに生かされた。沢田の「危険なふたり」「TOKIO」など一連のヒット曲は加瀬さんの手によるものだ。

「私は加瀬さんがプロデュースした『アマポーラ』という沢田さんの歌の日本語詞を担当したんですが、加瀬さんは、こんな優雅な雰囲気だといいんじゃない? なんて、年下の、でもスターの沢田さんをたてておられましたね」(湯川さん)

 こんな逸話もある。

 66年、ビートルズが初来日した際、加瀬さんは当時所属していた寺内タケシとブルージーンズというバンドで前座演奏をすることになっていた。だが厳しいセキュリティーの問題から楽屋に外から鍵をかけられビートルズの演奏を見られないと知り、ビートルズを見るためにバンドを脱退して、客席で演奏を見たという。

 加瀬さんが死を選んだのは、くしくも元ビートルズのポール・マッカートニーが来日した日。湯川さんはポールの公演を聴きに行き、こう感じたという。

「加瀬さんは会場のどこかで聴いていた気がするんです。がんで体が思うように動かず、無念だったはず。だから自由な魂になって、ポールの歌を聴きたいと思われたのではないでしょうか……」

「想い出の渚」には、<忘れはしないいつまでも>というフレーズがある。3人になったワイルドワンズのメンバーは会見で、「加瀬さんのレガシー(遺産)を引き継ぐ」と宣言した。

週刊朝日 2015年5月8‐15日号