※イメージ写真 @@写禁
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 地下鉄日比谷線北千住発中目黒行きの午前7時46分発の電車に、実行役の林泰男死刑囚は、杉本繁郎受刑者の運転する車で上野駅から乗り込み、秋葉原駅でサリン液の入った三つのポリ袋を傘の先でついた。その結果、電車は築地駅で緊急停止。死者8人、重軽傷者約2500人を出し、日比谷線のこの電車はサリンがばらまかれた丸ノ内線、千代田線などの5本の電車の中で最大の被害が出た。当時、会社員だった石橋毅さん(51)は、埼玉県越谷市で暮らし、朝の出勤途中、電車に乗り合わせた。そのときのことを石橋さんが振り返る。

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 1995年3月20日は普段と何ら変わらない、晴れ渡った朝でした。日比谷線神谷町駅の近くにある会社のビルのメンテナンスに出勤するため、午前7時くらいに自宅を出て、越谷駅から東武伊勢崎線に乗り、日比谷線の北千住駅で席に座り、車内ではスポーツ紙で好きなプロ野球の記事を読みながらウトウトしていました。

 日比谷線の人形町駅か八丁堀駅を過ぎたころ、何か2回くらいドスンというような音がして、目が覚め、車内を見回したら、左斜め前に立っていた初老の男性がいきなり、のど元に手を当て、体を硬直させながら後ろ向きに倒れた。

 2メートルくらい離れたドアの近くには水たまりのようなものがあった記憶があります。車内にはシンナーのようなにおいが漂っていて、クラクラした気分になった。キャーという女性の悲鳴も聞こえた。

 スーツ姿のサラリーマンが、ハンカチを口に当てながら、ドアの近くにあった非常通報ボタンを押して、電車は築地駅で緊急停止した。「毒ガスだ、逃げろ」という声が聞こえ、乗っていた人たちは、ドアをこじ開け、一斉に走りだした。私も駅の外へ逃げようと全力で走ったが、階段を上っている途中で、足が動かなくなった。四つん這いになって地上を目指した。

 階段を上り切って、外に出ると築地本願寺のそばに出た。青い空、澄みきった空気でした。

 何が地下鉄で起きたのかはわからなかったが、とにかく会社へ行くことだけを考えていた。築地本願寺の前あたりから市場のほうへ交差点を目指して歩き、交差点でタクシーを拾い、後部座席に座り込んだ。運転手さんと話をしているうちに、息苦しくなり、大きく口を開けてハアハア言うようになって、そのうち気を失ってしまった。

 気づいたら、タクシーの運転手さんにかつがれて、虎の門病院の受け付けへ到着していた。病院ではソファに倒れ込んでいる人、ハンカチで口を覆ってうずくまっている人、駆け回る看護師さん。パニック状態でした。

 私は集中治療室(ICU)に運ばれ、点滴を受け、しばらく気を失っていた。スタッフが電話で「えー、サリンだってよ」と話している声が聞こえてきた。それで、サリンがまかれたのを知りました。病室がとても暗く感じました。後で知ったのですが、目の前が暗く感じるのはサリンの中毒症状だそうです。

 4日間入院しました。その後、通院しているときに、病院で警察の方からも事情を聴かせてほしいと言われ、話をしました。警察官から、地下鉄の電車の車内に、私が通勤の緑のバッグを忘れたと教えられました。中には弁当が入っていました。

 事件後、疲れやすく、膝に力が入らないなどの症状があり、誰かにつけられているという妄想にとりつかれた。精神科に入院したりもしました。

 3~4年勤めていたメンテナンス会社は、事件の半年後に辞め、地元の新潟県に戻ってきました。サリン事件後、5回転職し、結婚もしたけれど、5年で離婚。離婚してからプライベートでは何一つ楽しいことがない日々が続いた。

 2008年12月、政府はオウム真理教による八つの事件の被害者に対し、給付金を支払いました。

 そのとき、私は特に申請もしなかったのですが、一時金100万円を給付されました。

 その際に、警察の方が尋ねてこられ、新潟にもそういう被害者が十数人いるということを聞きました。

 今は新潟県長岡市の地元の会社に勤めて14年ほどになります。心の病や引きこもりの人たちがタレントとして活動する地元のグループ「K−BOX」に参加し、地下鉄サリン事件を題材にした詩を作って朗読したり、ピアノの弾き語りをするようになり、心の安定が得られるようになりました。

(本誌取材班=上田耕司、牧野めぐみ、原山擁平、福田雄一/今西憲之)

週刊朝日  2015年3月27日号