桑名正博さんが脳幹出血で亡くなって、早1年。息子のロックミュージシャン・美勇士(32)が最初で最後の親子共演曲となる「One」を発売した。生前の桑名さんの歌声と米ロサンゼルスで暮らすアン・ルイスさんの歌声を合わせた楽曲の制作秘話と両親の思い出を聞いた。

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――美勇士(みゅうじ)って、キラキラ・ネームの走りですよね。

 僕が小学生の頃、もうすぐ子供が生まれるというアンさんのファンに「同じ名前を付けてもいい?」と聞かれて、「嫌だ」って断ったことがありました(笑)。自分だけのモノにしておきたかったんです。それが今はタレントさんにも同じ名前の子がいて、僕より先に売れたら嫌だな、とか思ってます(笑)。自分に子供ができた時、普通の名前は付けたくなくて、悩みました。女の子だと分かって、生まれる1週間ぐらい前、運転してて、ふと「音衣(ねい)」という名前が浮かんだんです。次に生まれた長男の時はオヤジの生まれ変わりだと思ったので「藍紅(あいく)」としました。藍と紅を合わせるとバイオレットでしょ(笑)。

――最後の親子共演の曲をどうやって作りましたか?

 オヤジは阪神大震災の時、いろいろなボランティア活動をしていたんです。僕も3.11以降、何かできないかと思っていて、チャリティーソングを作ったんですよ。で、オヤジにも「歌ってよ」と頼むと「エエよ」と受けてくれて、自分で詞まで書き足して「俺、ココ歌うわ」とレコーディングしたのは去年5月でした。

――アンさんは?

 僕の夢は親子3人で歌うことだったんで、オヤジが倒れる前に一度、オファーしたんです。だけど断られて(笑)、「じゃあ、オヤジと2人でやるよ」と。そしたらオヤジが7月に倒れて……亡くなって……、「何とか一言でもいいから歌ってよ」と頼み込んで、やっと受けてもらいました。アンさんが機嫌のいいときに録らなきゃと、今年2月、僕がロスに行って収録してきたんです。

――アンさんって、どんなお母さんだったんですか?

 たとえばハロウィンとかクリスマスとか感謝祭とか、そういう時は必ず、僕のクラスメートに配るためのお菓子やプレゼントを用意するんです。本人がそういうことが好きだったんでしょうし、見栄もあったのかもしれませんけど、こぶし大ぐらいの袋にお菓子をいっぱい詰めたものを20個、30個、1週間前ぐらいから夜な夜な手作りして……インターナショナルスクールでも、そんな丁寧なことするお母さんはウチだけで、「さすがやな」と思ってました。だからって、けして良いお母さんではなかったです。お母さんだけど、やっぱりアン・ルイスなんです(笑)。

――桑名さんはアンさんのことを何と言ってました?

 酔っぱらって帰る間際とかに「俺はお前のおかんを、ちゃんと愛してたんやぞ」というようなことを時々、それも今の奥さんの前で言ってました(笑)。奥さんは「分かってるから大丈夫」って感じの人なんですけど、息子としては「もういいよ」と気を使って話題を変えようとしてましたね。今思えば、オヤジは自分が死ぬって分かってたような気がします。仲が悪かった芸能人にわざわざ20年ぶりぐらいに電話して「仲直りしてライブやろうぜ」なんて言ったりして……。今回の、このCDもそうです。息子のために最後のプレゼントを残そうと思ってやってくれたんやろなぁ、と思っちゃうんです。そして僕も悔いなく送り出せたかなって感じはしてます。

――アンさんと今は?

 もっと親孝行もしたいし、息子孝行もしてほしいなって思うんですけど、彼女は強気で「自分は一生、一人で生きてく」みたいなこと言ってますからね。僕としては、そっとしてます。オヤジが亡くなった時に帰ってきてくれなかったことを息子としては実はまだ、許せてませんね。ロサンゼルスと日本なんだし、別れた夫婦なんだから無理だよな、ってひとりの人間としては理解できるんですけど。ただ、アン・ルイスはやっぱりどこまでいってもアーティストなんですよ。

週刊朝日 2013年11月8日号