広瀬 事故直後に藤田さんと電話で話をしましたが、半年たっても収束のめどはたっていません。
藤田 1号機から4号機まで溶け落ちた核燃料が、どんな状態になっているか、わからないわけですよね。いつ何時原子炉の爆発が起こっても不思議ではない。どこかが爆発して核燃料が大量に放出されることになれば、その周辺は人が近寄れなくなりますから、チェルノブイリをはるかに上回る大惨事になりかねない。
広瀬 原子炉に穴が開いて核燃料が溶け落ちていることは間違いないと思いますが、その状態はだれにもわからない。私は表面に分厚い酸化膜ができて、かさぶたのようになっているケースを考えています。金属が露出されていないから水をかけても冷えない。中では猛烈な熱が出ている。まるで安定とはほど遠い状態のまま、報道が少なくなって国民は目隠しされている。
藤田 発熱体の核燃料がコンクリートを溶かして、じりじりとめり込んでいるのか、どこかに引っかかっているのか......。判断材料がないので、考えるのをやめちゃっているんですよ。
広瀬 原子炉内部は、だれも見られないわけですからね。それでも公表されているデータをサイエンスライターの田中三彦さんらが解析して、地震の揺れによる配管破断によって事故が起きたことが明らかになってきました(「エコノミスト」7月11日臨時増刊号など)。政府の公式見解のように津波がすべての原因ではないのです。地震の直撃を受ければ、全国どの原発でも福島第一原発と同様の重大事故が必ず起こります。事故が起きていないのは、たまたま地震に襲われていないだけです。
藤田 チェルノブイリ原発の事故の6年後だったと思いますが、汚染地域のある村に行ったら、ちょうど夏休みで子供たちは汚染のないところに行っていて、一人もいない。おばあちゃんと話をしていて、「もうすぐ夏休みが終わって子供たちが帰ってくるから、楽しみだね」って言った瞬間に、そのおばあちゃんに胸ぐらをつかまれた。「あんたらは日本から来た科学者だろ。人の住めるところではないってことは知っているはずだ。そこに子供が帰ってくるんだよ!」って、ワーッと怒りだしたわけね。みんな汚染地帯と知りながら暮らしている。そこに子供がいて、怒りやかなしみや絶望、あらゆる感情を押しつぶして、みんな生きている。で、僕が能天気に「楽しみだね」なんて言ったもんだから、おばあちゃんは激怒して、バーッと感情が爆発した。被曝のことは忘れたい。考えたくない。言いたくない。そういう思いを抱いて人々が暮らしていくということは、なんと残酷なことかと、そのとき思いましたね。
広瀬 ヨーロッパのメディアの取材を受けて事故について話をすると、「福島に人が住んでいることが信じられない。ヨーロッパなら移住している」と言われますね。福島の子供たちは疎開すべきだと言い続けているのですが、そもそも事故で放出された放射性物質は、原子力安全・保安院が6月に発表した77万テラベクレル(テラは1兆倍)より、けた違いに多いとみています。骨に定着するストロンチウムもほとんど報道されませんが、出ていないはずがない。
藤田 ええ、ストロンチウムはセシウムと同様に出ていますね。化学分離して測る操作が必要なので、測定していないだけでしょう。ストロンチウムの汚染状況を調べるために、抜けた乳歯を全国的に集めて、測定を始めるべきです。
広瀬 1950~60年代の大気中の核実験の影響を調べるために、杉並区の人たちが測定したグラフを見せてもらったことがあります。大気中核実験でも乳歯のストロンチウムの検出は、ガッと上がっていましたね。
●敗戦を上回る国家破綻が進む
藤田 今、やる必要があるんです。全国で継続的に測ると、日本全体の被曝量というものが推定できる。非常に重要なデータです。しかし、先日も医師の集まりで訴えたけれども、反応がないんですよ。大学も機能していない。物理学者も動かない。これだけの放射能汚染に対して、学問の世界が非常に立ち遅れている。
広瀬 まったく動こうとしない文化人、著名人にも、いったい何してるんだって、怒鳴りつけたい。
藤田 今の日本は、チェルノブイリのときのような情報発信が、政府内部からありません。チェルノブイリでも、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めたゴルバチョフ(当時ソ連書記長)がいなければ、今の日本と同じように、何も起こってない、だいじょうぶだと言って、みんなそこに暮らしていたと思うんですね。
僕らは1990年から現場に入っていきましたが、そこにはソ連(当時)の巨大な官僚システムに風穴を開けようとする動きがあった。研究所や病院も旧体制の保守派と改革派に、はっきり色分けができた。保守派は紋切り型の回答しかないのに、改革派はデータを積極的に出してくれる。ニュースソースが二つあったわけです。だから旧体制を情報源にした、日本政府のように「何も起こっていない」という発表もあるし、一方で深刻な事態が伝えられる報道もあるのです。汚染地図にしても、おびただしい数の科学者や医者たちが、民衆を、人民を守るという意識に目覚めて、あの広大な、半径500キロ、600キロという地域にあるすべての集落の土壌を、一つの集落につき3検体から5検体集めて、それをぜんぶ測っ
て作っていた。
広瀬 あの地図は本当にすごい。
藤田 それを測ってる現場を見せてもらったけれど、何万という土壌検体をひたすら調べていた。それをやっているのは、改革派の科学者たちなわけです。
広瀬 1989年にベルリンの壁が崩壊して、ヨーロッパから民主化を進める外圧もあったんですね。日本は今、外圧ないですから。
藤田 まったくないね。
広瀬 チェルノブイリのときは、ドイツなどで食品の汚染度を調べて、測定したベクレルを商品ごとに表示していましたね。あれを日本でも、今やらなければいけないのですよ。
藤田 政府が定めた1キロあたり500ベクレルという食品の基準値は、非常に高い値だと思っています。チェルノブイリ事故で深刻な汚染にさらされたヨーロッパで定められた暫定基準値は、1キロあたり370ベクレルでした。当時の日本政府も導入した値ですが、私たちはこれに抗議して、市民の手で放射線測定器を購入し、自主的に測定し、値を公表しました。そのときに定めた自主的な基準値は、国の値の10分の1にあたる37ベクレルです。
広瀬 放射能の影響が大きい子供には、ヨーロッパでも大人の10分の1以下に設定したんですよ。どう考えても、500ベクレルなんていう数字は、とんでもない。このままでは、子供たちに大変なことが起こる。
藤田 ただ難しいのは、チェルノブイリのときに問題とされたのは輸入食品だったんですよ。だから、騒げたんです。今は国内の生産者に対して刃が向いてしまうというのがあるでしょ。
広瀬 そうですね。町の八百屋さんや魚屋さんの顔を見ながら、言わなきゃいけないわけですよね。できないんですよ、つらくて。言ったら、あの人たち、どうなるんだろうと思って。
藤田 生産者と消費者が共存できない状況が生まれてしまった。これは日本の歴史のなかで、最大級の問題です。消費者を守ろうとすれば生産者は排除しなければならないし、生産者を守ろうとすれば消費者が犠牲になってしまう。そういう構造のなかで、いったいこの国の食品の流通というものを、どうすればいいのか。そう考えると、僕はやっぱり福島を中心とした汚染地帯は、ソ連のように封鎖すべきだと思います。今の汚染レベルを考えると、新幹線や高速道路も通してはいけないと思う。そこの人びとは手厚く保護しながら、九州や北海道などの耕作放棄地や限界集落などに移住させるべきです。国の存立がかかる食料自給を支える東北が、深刻な放射能汚染にさらされた現実を直視して、北海道や九州がどれだけ補えるかを考えなければいけない。
広瀬 それは国を根本から変えるような大事業なわけです。まずは取りかえしのつかない、大規模で深刻な放射能汚染が起こったことを認めてから、話をはじめないといけない。認めろって、僕は叫んでまわってるわけだけど、認めないんですよ、国民が。
藤田 敗戦と同じ規模、あるいはそれを上回る国家的な破綻が起こりつつあるのだけれど、その現実を受け入れたくないんだね。それに明治維新や敗戦でも、国家的な破綻の先に、なんらかの希望があった。今はその先の希望が見えない。
戦後は至るところ焼け跡で、崩壊というのがだれにも見えたんだけども、放射能っていうのはまったく見えないから。チェルノブイリでは、まさに何も変わっていなかった。「緑したたる廃虚」という言葉でそれを表現したことがある。ほんとに豊かなウクライナの穀倉地帯がそのまま残っている。でも、放射能を測ればとてつもなく高い。日本で実感が湧かないというのは、まさにそういう状況ですね。やらなくちゃいけないことはわかっているけれど、やれるはずがない。だから、広瀬さんもがんばって走り回ったり、書いたりしているけれど、どうせだめだろうなって。ちょっと今、あきらめかけている。
広瀬 その気持は同じだけれど、われわれ老人が死んでも、子供たちは見捨てられない。あとは現地のゲリラ戦しかない。第二のフクシマがあれば食料は日本から消えるのだから、すべての原発を止める。国に対しては期待しない。だけど、福井県の西川一誠知事が原発の再稼働に疑問を投げかけているように、原発がある現地は事態を深刻に受け止めている。現地を変えて、止める。それしかない。
藤田 そう、地域の戦いですね。僕は今、九州で、農業者、漁業者、林業者、畜産業者に、働きかけを始めています。事故が起こったら、地場の産業は崩壊することがわかったはずだ。一人一人が声を上げなければ何も変わらない。地域から日本が変わっていくことに、希望を見いだすしかないですね。 (構成 本誌・堀井正明)
*
ふじた・ゆうこう 1942年生まれ。東京都立大大学院修了。2007年に慶大教員(物理学)を退職、長崎県西海市に移住。全国の反原発市民運動を支援する。87年には放射能汚染食品測定室設立。『もう原発にはだまされない』(青志社)などの著書がある
*
ひろせ・たかし 1943年生まれ。早大理工学部応用化学科卒。『原子炉時限爆弾──大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)、『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)など著書多数。本連載をまとめた『原発破局を阻止せよ!』(朝日新聞出版)が8月30日に緊急出版された
