今から約240年前の安永8(1779)年の12月18日は、江戸時代を代表する奇人であり、発明家として知られる平賀源内がこの世を去った日「源内忌」です。土用丑の日の鰻のキャッチコピーやエレキテル、浮き世絵の多色刷り技法(錦絵)の完成、鉱山開発などなどさまざまな逸話で知られる伝説的な「非常識人」平賀源内。山師(ペテン師)とも言われたその素性は、鎖国時代真っ只中の日本に海外の風を送り込んだトリックスターだったといえます。そしてその死は、何と人殺しで捕らえられ、悲惨な獄中死であったと伝えられています。

お馴染み、破魔矢。ヒットの裏側に源内あり⁉
お馴染み、破魔矢。ヒットの裏側に源内あり⁉

現代人をも呪縛する稀代のコピーライターの実力

平賀源内(1728~1779)の本名は国倫(くにとも)。四国高松藩の足軽格の家系の三男として生を受けました。24歳の時に藩命で長崎、江戸で蘭学、漢学、本草学を修めますが、後に藩の拘束を嫌い脱藩してしまいます。自由を得た代わりに、高松藩からは怒りを買い、他藩への仕官を禁じる処分を下され、結果として生活のためにさまざまなアイデア商品の発明や金儲けのための仕掛けを繰り出さねばならない人生を送ることになりました。
発明品やアイデア商品の数は100を越えるといわれますが、その中には今でも神社仏閣の魔よけグッズとして知られる「破魔矢」もあります。現在の東京都大田区にある新田義貞ゆかりの神社・新田神社で、境内の古墳付近にしか生えていない珍しい竹を使用した矢飾りを新田家伝来の「水破兵破」の二筋の矢「矢守り」として売り出して評判を取り、以来ブームとなりました。商才と文才を併せ持った源内のはったり商法から、「日本初のコピーライター」とも言われています。
こうしたはったりでもっとも有名なエピソードが「本日土用の丑の日」と張り紙をして、夏にさっぱり売れない鰻を宣伝したという逸話です。言うまでもなく鰻の旬は産卵前の秋から冬。夏の鰻はやせて味も落ちるものです。しかも、源内当時の「ウナギの蒲焼」は、現代のように醤油と味醂などを合わせた甘辛くこくのあるタレではなく、醤油もしくは味噌で味付けした田楽のようなものでした。当時の蒲焼は実際暑い夏には食べたくないような代物でした。これをたったワンフレーズのワードでひっくり返したのですから、源内のコピーライターとしての才能がうかがい知れます。何より現代においてすら、日本人は旬でもない真夏にウナギウナギと狂奔しているのですから、源内の仕掛けた言葉の魔法たるや、というものです。

夏の風物詩土用の鰻も、もとは1本のコピーから
夏の風物詩土用の鰻も、もとは1本のコピーから

アイデアマン源内は、重商主義の田沼政治のもとで水を得た!

こうした源内の大活躍は、重商主義(商業を重んじる政策)を取った時の老中首座、田沼意次の政策と、方向性が一致していたからでした。
田沼意次(1719~1788)は、第九代将軍家重の時代に重臣として頭角を現し、重農主義から重商主義へと政治を大きく変換させた人物です。それまでの江戸時代の経済の基盤は米。自然・気候の影響の大きい米による年貢を基礎にしている限り、相場変動が大きく経済が安定しません。そこで意次は運上・冥加 (うんじょう・みょうが)の雑税(営業税)を徴収する代わりに株仲間(業界カルテル)を大幅に認める規制緩和を行い、商業活動の活性化を促しました。
印旛沼・手賀沼の干拓や蝦夷地開発などの新田開拓にも力を注ぎ、生産力の向上にも努めて一揆対策、農民の経済力向上につとめました。俵物(干しアワビ・フカヒレ・ナマコなどの高級中華材料を主に清に向けて輸出するための貿易物資)や北方ロシアとの交易活性による外貨獲得。そして何より当時、江戸周辺の金貨と関西上方の銀貨、国内にもかかわらず統一されていなかったのを、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん・金代わり通用の銀)を鋳造流通させて、貨幣価値の統一を実現して、安定した貨幣経済を実現させました。田沼意次の経済政策で、幕府財政は潤い、商取引が盛んになり、商人の財力はさまざまな文化芸術の隆盛や海外の珍しい文物の流通ももたらしました。
しかし当時、上級武家階級には国学(朱子学)の勃興に伴い、教条主義・精神主義的な特権意識が強く、商業貿易を蔑み、外国人や南蛮文明への嫌悪も強くありました。そうした時代に、重商主義を取り、海外との貿易や文明の取り入れに積極的だった田沼意次には敵が多く、フリーランスな立場で立ち働いてくれる才覚の塊のような源内は得がたい存在だったのです。源内の博物学研究や浮世絵の技術改革の取り組みなどに資金援助を惜しまない代わりに、源内は西洋医術の文献「解体新書」(Anatomische Tabellen)の翻訳出版の尽力などで田沼のために働きました。
また、先述したように貨幣を鋳造する政策の必要性から、新たな鉱山開発が必要となり、源内は田沼の意を受けて全国の鉱山発掘に奔走するようになりました。伊豆、出羽、秩父などの鉱山鉱脈を探し全国をめぐるうち、秩父大滝の中津川付近で石綿(アスベスト)を発見し、現在のニッチツ秩父鉱山の基礎を作り、秩父地方の産業・インフラ整備などに貢献しました。後に源内はアスベストを織った火浣布(かかんぷ)を披露し、見世物として利用しました。

浮世絵(イメージ)の技術改革にも関わってたなんて
浮世絵(イメージ)の技術改革にも関わってたなんて

源内きってのヒット作「エレキテル」からはじまった転落

平賀源内と言えば、鰻のキャッチコピーと並んで有名なのが「エレキテル」。マンガなどでもよく取り上げられるので名前はよく知られていますが、一体何なのでしょう。
エレキテルとは、摩擦により静電気を発生させ、それを蓄電・増幅して発電する装置で、人類最初期の発電機です。オランダで発明され、見世物や医療器具、照明として用いられました。日本には宝暦年間に輸入され、うわさを聞いた源内が長崎で破損したエレキテルを手に入れ、源内発案の細工物の下請け製造をしていた職人の弥七とともに修理します。
エレキテルの見世物は評判となり、田沼意次邸で披露されたりしましたが、下請け職人の弥七が、源内の名をかたり、エレキテルの量産販売の元手資金を募るという詐欺まがいの事件を起こしてから、源内自身の評判も一気に転落してしまいました。
こうした折も折、大事件が起こります。「聞まゝの記(きくままのき)」の記述によれば、町人二人(大工の棟梁)と飲み明かしていた源内は、うたた寝した後に大事な書類(当時請け負っていた大名屋敷の設計図)が見当たらないことに気付き、町人たちが盗んだと思い込み、二人を切りつけ、一人を殺してしまいました。弥七とのいきさつから人間不信になっていたための凶行だといわれています。11月に殺人の咎で投獄され、12月18日、獄中で死去します。破傷風による病死とも、抗議の自殺ともいわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。
同性愛者で歌舞伎役者とは浮名を流していたことはあっても家族を持たなかった源内の葬儀は、「解体新書」翻訳以来の親友である杉田玄白によりとりおこなわれましたが、幕府が遺体の引き渡しを拒否したため、遺体なしの葬儀となりました。このことから、実は刃傷沙汰を起こした源内を救うために田沼意次により死んだことにされ、その実生き延びて余生をまっとうした、ともいわれています。さらには後の東洲斎写楽のフィクサーとして復活した、なんていう都市伝説まであったりするのは、非常識人・源内ならではでしょうか。

エレキテル
エレキテル

源内亡き後、時の権力者田沼意次も、急速に曲がり角に。一大プロジェクトだった印旛沼干拓が大洪水で難航、明和の大火、浅間山の噴火、と相次ぐ災害に天明の飢饉が重なり、そのすべてが、今ふうに言うならば「タヌマガー」という反田沼派の批判にさらされ、さらに1786年には最大の後ろ盾であった将軍家治が死去。意次は失脚します。その際、反意次派で次の老中首座に収まった松平定信により全財産が没収されますが、ほとんど財産らしいものはなかったといわれます。
松平定信は、田沼と逆方向に舵を切り、緊縮財政、貿易制限と外国排斥の政策を押し進めます。一方で荒廃農村の再建や飢饉対策の米備蓄(囲い米)、無宿者への職業訓練制度「人足寄場」など、善政にも努めた清廉な定信でしたが、その政策はことごとく空回りし、わずか六年で失脚してしまいます。
ちなみに、源内が安永5年(1776)に日本で初めてエレキテル(摩擦起電機)の復元修理に成功し、しばしば深川清住町(現在の江東区清澄一丁目)の自宅で実験を行い人々に見せた由来から、平賀源内電気実験の地の碑がこの地にあります。清澄公園をはさんだ清澄白河駅のほど近くには、源内のパトロン意次と対立した松平定信の墓所があります。何かしら因縁めいたものを感じざるを得ません。お近くに寄った折には、どちらも見学してみてはいかがでしょうか。
破魔矢発祥の神社 新田神社

東京清澄の平賀源内電気実験之地
東京清澄の平賀源内電気実験之地