第16回 『ホワイ・ジャズ・ハプンド』マーク・マイヤーズ著(下) |AERA dot. (アエラドット)

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第16回 『ホワイ・ジャズ・ハプンド』マーク・マイヤーズ著(下)

文・中山啓子

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■第10章より:ジャズ・ロック・フュージョンの出現

 ジャズ・ロック・フュージョンは、1967年春にレコーディングされた一枚のアルバムに、ほぼ起源を発する。すなわち、ヴィブラフォン奏者ゲイリー・バートンが新作『ダスター』において、ギター奏者ラリー・コリエルとともに試みた実験的演奏である。

 ジャズはそもそも、ラグタイム、シンコペートされたニューオリンズのパレード・ミュージック、ブルースといったスタイルの融合体であり、誕生した当初から、実にさまざまなフュージョンがあった。
 創成期にあたる1920年代に、ラジオとレコード盤が普及すると、ジャズは、ポピュラー・ミュージックと融合し、親しみやすく垢抜けたポップスの要素を吸収した。一方ポップスは、ジャズの熱く土臭い特徴を加味することになる。
 また、1924年に発表されたジョージ・ガーシュインの≪ラプソディ・イン・ブルー≫は、ジャズとクラシックの初期のフュージョンに数えられる。20年代のデューク・エリントン・オーケストラも、ブルースと同様にクラシックの楽想をアレンジしたフュージョン・バンドと見なされる。さらに、ルンバが伝来した20年代末期、ザヴィア・クガートは、ジャズとラテンを融合させた。

 ジャズ・ミュージシャンは、その後数十年にわたり、新しいサウンドを生み出し、ジャズの意義を維持しつつ、生計を立てるべく、さまざまなスタイルの音楽をアレンジし一体化させた。他のジャンルも同時に、ジャズをアレンジする。たとえば1940年代後期に、ボブ・ウィルズ&ヒズ・テキサス・プレイボーイズ、スペード・クーリー、マール・トラヴィスといったカントリー・ミュージシャンが、ジャズの楽想を組み入れ、ダンサブルにした結果、ウエスタン・スウィングが誕生した。
 50年代から60年代初期には、ジャズとラテンが、それぞれの表現形式を激しく交錯させ、新しいジャンルが生まれる。これは、40年代後期から50年代初期におけるジャズとR&B、あるいは、60年代初期のジャズとボサノヴァにも、当てはまる現象だった。

 60年代にはすでに、若い世代のジャズ・ミュージシャンは、ロックとソウルのパワーを活用したいと考えていた。彼らは、ロックの台頭に抵抗を感じず、ジャズという音楽そのものの支持者を増やしたいと思った。
 ゲイリー・バートンが、ふり返る。
「私はスタン・ゲッツの元を去り、バンドを結成したばかりだった。そして、新しいカルテットを売り出すためには、レコーディングをする必要があると思っていた。ラリー・コリエルとは、ニューヨークのジャム・セッションで出会い、私のバンドに誘った。ベーシスト、エディ・ゴメスとドラマー、ジョー・ハントも、メンバーに加わった。私たちは、ボストンやニューヨークの『カフェ・ア・ゴー・ゴー』で演奏するようになった。私はその後すぐに、新しいテーマを探しはじめた」。
「私は最初から、ジャズ・カルテットにカントリー、ロック、クラシックを融合させたいと思った。(ゴメスとハントが抜け)スティーヴ・スワローが、新たにベーシストとして加わったが、ドラムスの椅子は、しばらく定まらなかった。私は、ロイ・ヘインズに声をかけたが、彼はまだ、スタン・ゲッツとやっていて、もう少しバンドの基盤ができるまで、合流を見合わせたいと考えた。私のバンドが長続きすると思えなかったようだ。だが彼は、まもなく加入した。そうして私たちは、1967年4月にRCAスタジオに入った」

 バートンのコンセプトは、ジャズとロックを融合させ、より若いリスナーの共感を得ることだった。「スタンのファンは、私の倍ぐらいの年齢層だった。オーソドックスなジャズには、展望が感じられなかった。私は、同世代のリスナーと接点をもちたくて、新しいロックに耳を傾けていた。だから、私のバンドにそういうものを取り入れるのは、ごく自然な気がした。私は実際、ビートルズの大ファンで、彼らの音楽性に魅了されていたんだ。スタンのバンドから独立した時、新しいマーケットを見つける必要があると思った。ジャズとブラジル音楽を一体化させたスタンのように。そこで、私は自問した。『何がしっくりくるだろう?』と。その答えが、ロックとカントリーだった。そしてスティーヴ・スワローが、私のクリエイティヴなパートナーになった。彼は、すぐさまコンセプトを理解し、私の作曲や選択に協力してくれた」。

 バートンは1967年に、ジャズの新しいスタイルを創ったと実感していたのだろうか? 
「当時は、『ダスター』を画期的なレコードだと思わなかった。数あるレコードの中の一枚に過ぎなかった。最初の1年ほど、私のカルテットは、ジャズ・ロックという新しい音楽を演奏するローン・レンジャーのようなものだった。その頃、ジャズ・ロックを演奏するバンドは、他になかった。その後、ガボール・ザボのようなミュージシャンが、じょじょに現れたが。とにかく、60年代の後期にマイルス・デイヴィスが、そのコンセプトを前面に打ち出し、70年代の初期にジョン・マクラフリンがマハヴィシュヌ・オーケストラを、チック・コリアとスタンリー・クラークがリターン・トゥ・フォーエヴァーを結成するまでは、ジャズの新しいスタイルと認識されなかった」[次回7/21(月)更新予定]


(更新 2014.6.23 )


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