「新書の小径」に関する記事一覧

中世の貧民 説経師と廻国芸人
中世の貧民 説経師と廻国芸人
疾走しているようだ。  スゴイな説経節って。山椒大夫とかそういうドロドロした悲惨で残酷な恨みを晴らす物語だ……という知識ぐらいしかなかったが、こりゃ娯楽になるわ。三味線をべんべんとかき鳴らし、悲惨な残酷物語をうなる。で、その物語というのはだいたい「道行き」物で、当時は遠いところに旅行するなんて「一生に一度できたらいい」ような大イベントだったから、旅行の様、観光地(当時では神社や寺や遊郭)の様を、説経節が教えてくれる。それも、ただほのぼの旅行するわけじゃなくて、人買いにダマされるとか売られるとか折檻とかの、人の心をさらにワクワクさせる残酷絵図が繰り広げられる。そこに仏教説話も織り込まれて聞いているだけでありがたく、そして最後にはヒドイ目に遭い続けた不運の主人公は、恨みを晴らして成仏する。今も昔も人はこういうのが大好きなんだ。  本書の眼目は、中世の庶民の、いわば「きれいじゃない」生活を説経節の中から読み解くというものだ。作者の塩見さんは浅草弾左衛門の本などを出している人だし、差別問題としての中世の被差別民のことを書いてあるとばかり思ったが、読んでるとまずもって「説経節のパワー」に持っていかれる。  ここで材料になっている『小栗判官』は場面場面がえぐくて、ウケ狙いのような悲惨な事件が起きる。全体の流れだけ見ればけっこう冗漫。しかし、基本が「道行き」なので、「悲惨な理由で旅に出る→道中悲惨な目にさらに遭う→道中いろいろある→目的地到達で大団円」と、終わってみれば「大河に身をまかせた」感で満足するという仕組みだ。最近のNHK大河ドラマが、放映一回ごとにプチクライマックスを持ってくるのがウルサイと怒っていたが、説経節の伝統からいけばじつに正統的なやり方だったわけですね。  オグリといえば猿之助のスーパー歌舞伎だけど、アニメやミュージカルで荒唐無稽にガンガンやるともっとかっこいいとみた。
新書の小径
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10分あれば書店に行きなさい
10分あれば書店に行きなさい
10分あれば書店に行きなさい、と私も思います。「その通り!」と叫びたくなるほど。が、表紙を見るとどうも、私の考える本屋礼賛とは違うような……と思って確認のために買ってみた。やはり違っていました。これは一種の自己啓発本ですね。書籍や雑誌を見て「知性と精神力を磨」き(第1章)、「アイデアの宝庫」(第2章)からさらに良いアイデアを思いついて、人生の勝利者になろう!  私も本屋好きだからわかるんだけど、本が好きで本屋にすぐ行っちゃうのって、スロットが好きでパチスロ屋に入りびたるのと、行動としてはナンの差もない。パチスロに夢中で車内の子供が死ぬのはニュースになるけれど、立ち読みに夢中で子供が死んだ事件だってあるはず。叩きづらいからニュースにならないだけ。立ち読みしてたのがロリコンエロ漫画だったらニュースになるかもしれませんが。  世間ではパチスロ屋はよくなくて本屋ならいいという風潮があり、本屋に行くべきだという思い込みもある。「どうですか齋藤先生! 本屋に行く気になるのをひとつ! 『声に出して読みたい日本語』の著者として大いに本屋を盛り上げましょう!」と言われて、「オレ本好きだし、本屋楽しいし、イイネ!」と引き受けたのではなかろうか。でも、この本を読んでみると、齋藤さんは本屋に「行かねば」とは考えたことすらない、ただそこが面白いから本屋に入りびたる人なのだ。そういう人には「本屋に行くことを義務と考える=イヤイヤ行く人」の気持ちなどわからず、いざ書こうとすると「え?……どうして本屋行かないの?」となり、しょうがないから実利的な、ビジネス本ぽい内容になっちゃったんではなかろうか。  本屋を好きになりたい人へのアドバイスとしては「本屋はどうでもいいから、パチスロでもフラダンスでもなんでも好きなことに熱中してなさい。その熱中の気持ちがいつか本に行くかもしれないので、その時に本屋に通えばよろしい」と言うしかないと思います。
新書の小径
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大阪 大都市は国家を超えるか
大阪 大都市は国家を超えるか
良質の歴史の本を読んだような気持ちになれる。子供の頃、親の本棚にあった中央公論社の「日本の歴史」「世界の歴史」シリーズを読んだ時の、「堅い話が面白い」というあの感じ。中公の「日本の歴史」って、たまに挿入される写真がどういうわけだか粒子が粗く、陰気に写っていて、それも子供をドキドキさせた。  近代の大阪の歴史を政治の面から見て書いています。たかだか19世紀末からの短い歴史で、おまけにそれは「よく知ってる大阪」で、ちょっとだけ昔のことを書いてあるのにもかかわらず、それが「自分の知ってるこの大阪とは違う」ように感じられる。よく見知った世界で見知った人が動いているのにそこは別の次元で、歩いている人とぶつかりそうになっても体をすりぬけてしまう、というような。そんな文学的な気分を味わえるのが良質な歴史書でして、この『大阪』もまさにそういう本です。  田んぼが広がっていた大阪平野が、いかなる都市計画のもとに、人口・面積ともに東京市を上回る「大大阪」といわれる都市となり、そして行き詰まって現在に至るか。景気がいいと言われた時代でも自分には景気のいい話がなかった私にとって、政治家に今の大阪は行き詰まってるって言われても「昔と同様じゃ?」と実感があまりなかったんだけど、この本を読むと、「伸びていこうとする都市」としてのイキイキした大阪がちゃんとあって、今は確かにソレはないなと実感できる。発展しかかっている頃の大阪って、繁華街があって郊外があって、娯楽があって文化があって緑があったのだ。  当時の都市計画をした市長が偉かったんだろうとも思う。時代も良かったんだろう。人が生きてるとキレイな時もキタナイ時もある。都市にもあるってことだ。橋下徹が府知事になってからのことも書かれているが、この本の写真は暗くて粗くてコワイ。ごく最近の写真ですらこんなふうに載せてしまう、これは正しく「良質な歴史書」です。
新書の小径
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「マツダ商店(広島東洋カープ)」はなぜ赤字にならないのか?
「マツダ商店(広島東洋カープ)」はなぜ赤字にならないのか?
当欄では「ほぼ地方の書店でしか売られていない地方新書」にも光を当てたい。そこで「ザ・広島!」だ。私の住んでいる広島って、テレビつけたらカープカープ、マツダマツダで、「すべてのニュースの中でふつうにトップ」である。その割に道路にはマツダ車よりトヨタが目についたりする。しかしカープ愛はすごい。地方球団の中でいちばん「泥臭い熱さ」で応援されている。サンフレッチェへの応援はそれほど泥臭くないので、「広島の地域性」というよりも「広島で野球を愛する人の人間性」だと思われる。  この書名は、一見ビジネス新書を思わせる。いわゆる「地方の名門企業がうまくやっていく秘訣本」のような。まったく違う。  「巨額マネーを手にしていた巨人たち」という始まりで、いったいどういう話が展開されるのか、と読んでいくと、つまりは「カープは37年連続黒字であるが球団成績は低迷を続けている。使うところに金を使わないからだ! 赤でもいいから(いやカープといえば赤ですけど)つぎ込むところに金つぎ込んで強くしろ! つぎ込むはずの金はどこに消えたんだ? 誰とは言わないがオーナーのとこじゃないのか? カープは松田家の私物じゃない! でもカープ大好き、がんばれ!」(大意)という内容なのであった。  選手の育成や使い方も、現在のカープはなっていないらしく(成績を見れば、まあそれはそうだろう)、協調性という言葉に「呪われて」こんなことになってしまったそうだ。日本プロ野球誕生時からひもといてカープの歴史を語るが、要は「とにかくカープがんばれ」。とどめは「カープ仮想メンバー」を妄想して(金本とかが戻ってくる)、幸せな気分になっている。が、その幸せもすぐ冷めて、今のカープを思って首を垂れる。  熱い本というのは何にせよ面白い。あ、この本、前に紹介した『衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?』の人が書いてるのか! 一読の価値はある。
新書の小径
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ピカソは本当に偉いのか?
ピカソは本当に偉いのか?
いや、たしかにピカソは偉いと思いますよ。  ピカソっていうだけで何かこう、人々の頭の中にはバシッとイメージが湧きますもの。ゲルニカ思い出す人も、ピエロ思い出す人もいよう。そしてあの絶倫ぽいハゲ頭。うまいんだか、ヘタなんだかよくわからない、とほぼ全世界の人(たぶん)がそう思っている。で、そんなピカソは「ほんとにエライのか?」ということを考えようという本が出た。  これ読んで思ったのは、アンディ・ウォーホールが、自分の作品を「ファクトリー」の形式で売りまくって稼ぎまくったことがすごく斬新だったと言われてるけど、ピカソも同じようなことやってんじゃん、ということでした。自分の作品を売ることへの貪欲さというか、画商とのかけひき(それもエキセントリックな)なんかはよく似てるではないか(どっちのファンからも「ちがうー!」と怒られそうだが)。ただ、ピカソは女好きでエロなイメージ、ウォーホールは生涯独身のマザコン、というあたりが人に与えるイメージの差になってそうだ。ウォーホールのほうが無機的っぽくて「ファクトリー」のイメージがきわだつ。  「ピカソはほんとにエライか問題」をいろいろな方面から突きつめながら、ついでに著者の「美術史」「美学」「美」についての思いも語られる。何せ相手が芸術であるので、きっちりした正解などない。答えを探すのもぐるぐると周辺を撫でたり、かすったり、つっこんだり、どっかいったり、ということになっているが、当時の芸術家およびその取り巻きについての豆知識がいっぱいなので楽しく読めます。  最終章で、著者はエライかエラクないかについて、思いっきり断言してるのだが、ぜんぜん納得がいかない。でもそれで著者の結論が間違ってる、と思うわけでもない。芸術というものはこうもワケのわからんものか、と感心して、だからピカソの絵もさぞや高く売れたんだろうなあと納得できた。
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歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ
歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ
これを読んでいると「うわ、歴史ってこういうコマコマした部分にぐっと近づいてみると、すんごい面白いな!」と思う。それだけじゃない。「この人の文章はなんだかやたらと面白いな!」と思う。面白いのが2倍というか2乗というか。  歴史エッセイ集です。第1章が「忍者の実像を探る」で、多くの類似本をつかまされてきた者として言わせてもらうと、こういうタイトルで面白かったためしナシ!ただのつまらん資料の羅列だったり、つまらん想像の羅列だったり。しかしこれは違った。忍者に関する資料の開陳があり、古文書を探す自分についての記述もあり、その配分というか混ざりぐあいが絶妙。取り上げる歴史の話に加え、その話にたどりつくまでの苦労や偶然や僥倖の話がまたいい。  江戸時代になると、忍者の名前が「侍帳(さむらいちょう)」に載るようになり、「これでは誰が忍者かわかってしまう」と書く。この微妙な可笑しさ。狙って書いているにちがいないが、「“狙ってる”ヤツ嫌い」な私でも、この塩梅ならまあ許す(一体私は何様なのか)。  忍者というのは、シロート向け歴史本の中ではメジャーな、しかし案外面白くないアイテム。それを第1章に持ってくるのも相当な自信で、これがつまんなきゃ激怒モノだし、まあまあ程度なら失笑モノというハードルを鮮やかに飛び越えている。その後に出てくるネタも、「江戸の狆(ちん)飼育」とか(読んでいると、狆の顔がうわっと浮かんできて気持ちが悪くなってくる)、江戸時代の各藩に伝わる“これ食っちゃいかんリスト”など、それを知ったからといって出世の役には立つまいが、知ったことによって「ああ、人生がひとつ豊かになった」と思えるような知識を次々と紹介してくれる。  震災を体験して、古文書の中の地震を調べる話もある。巨大地震はごくふつうに日本を襲い、ごくふつうに大量の人が死んでいる。しかし昔は放射能漏れなんてものがなかっただけマシか。
新書の小径
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日本綺人物語
日本綺人物語
福田和也というのは何者なのか。本人がいちばん「コレだ」と言いたい肩書は何なのか。私はずっと政治評論家だと思っていた。といっても、現在の政治を評論するのではなく、「古今の政治家についてのゴシップ紹介家」という意味合い。この場合の政治家ってのは、「文学者集団における政治家」とか「歌舞伎界における政治家」まで含める。集団内の“政治活動”を解説するのが大好きな人。でも、いまも福田さんは「文学者」を目指しているのではないか。芸術選奨とかをもらうような作家。なんといっても三島賞とかもらってるから、もともと文学者なのだ。  福田さんの本を読んでいつも思うのが「うるささ」。何を書いていても常に出てくる「オレがオレが」というにおい。昭和天皇の伝記ですら、選ぶ言葉の端々まで「このオレがこの言葉をあえて選ぶ!」(昭和天皇を一貫して“彼の人”って書くとか)という自意識がもう、うるさいうるさい。  この本でも、近代日本に登場した奇人を何人も紹介するわけだが、そのセレクトも「皆さん、この人たちはふつうは偉人の範疇として扱われますが、それだけの人じゃない。奇人なんです。奇人の域に行く人こそが本物なんです!」と行間からぷんぷん匂わせる。で、奇人じゃなくて「綺人」と書く。その綺人は、小林一三とか樋口一葉とか。案外ふつう。いやいや、ああ見えるけど奇人なんですよ、と言いたそうだが、ふつうです、ふつう。  それでも、よく知らない奇人も出てくるので興味深く読もうとするんだが、やたら改行の多い、妙に詩情を感じさせる……というか、書いてる人が詩情にひたっているような文章なので気が散ってしょうがない。整体師の野口晴哉(はるちか)について書いた文章など、すごいことになっているので一読をお勧めしたい。ほとんどが野口晴哉の妻とその親(近衛文麿夫婦)のことしか書いていない。思い出した、福田さんは華族好きだ。「新潮45」の連載だったのに、新潮新書になっていないのが納得の本である。
新書の小径
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田中角栄
田中角栄
私は昔、旧新潟3区に住んでいて、角さんが総理になった時の大騒ぎも、ロッキードで逮捕された時に悄然となっていたのも記憶にある。そして角栄といえば日本でもっとも知名度のある政治家の一人である。にもかかわらず角さんの来歴とかほとんど知らなかった。高等小学校卒業、土建屋、越山会の女王。あとは目白と砂防会館と池の鯉と「よっしゃよっしゃ」。知っているのはそれくらい。  この本を読んで初めて角さんの歩んだ道を詳しく知ったのだが、読みおわって断片的に知っていたことでほぼ充分ではないかと感じた。角さんという人は、愛嬌があり、頭の回転が速く、教養や知識に欠け、雑で単純で、欲望が強い。まさに、昔からの角さんのイメージそのもの。それを覆すエッと驚くような新事実などはない。ああやっぱりそうだったのか、と断片的知識がまとまってガッチリ固まっていく。  イギリス訪問をした角さんがエリザベス女王と競馬談議をした、というエピソードなど読むと、いったい女王陛下と話したのは血統の話なのか、レース展開の話なのか、競走体系の話なのかが気になるが、そんなことは書いていない。そこを書かずしてどうすると競馬好きの私は思うが、「田中角栄という人の魅力」みたいなものは伝わってくる。悪いことをしたとされる人でも、その人生を描くとたいがい人間的魅力が出てくるが、この本もそれの一種だろう。実際にそばにいたら面白い人だったと思うし、顔は私の好みだし、好きになってた可能性は高い。しかしそういう話はやがて「今の政治家はダメ、昔はよかった」とかいう方向に向かってしまってよくない。  この本で何を訴えたかったのか。そのへんがいまひとつわからないのだが、番記者として角さんのそばにいた著者が、その時の良きにつけ悪しきにつけ、どきどきわくわくした気持ちを記録しておきたい、という感じなのかな。露骨な角さん礼賛本になってないし、それもまたいいと思える本です。
新書の小径
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同期生 「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年
同期生 「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年
現役とはどういうことか、というのをしみじみと感じさせた本でした。  この三人がまさにトップで活躍してた時代に「りぼん」を読んでいた。巻末の三人の作品年表をつくづく眺めてしまった。1972、3年あたりだ、いちばん夢中になってた頃。もりたじゅんの『キッス甘いかしょっぱいか』とか弓月光の『おでんグツグツ』とか面白かったよなー。一条ゆかりは『おとうと』なんていう、ショッキングなマンガで小学生の私を幻惑したのであった。  しかし本書の表紙を見て驚きましたね。それぞれ美女の絵を描いているんだけど、一条ゆかりと弓月光は「ああ、あの一条さんと弓月さんの絵だ」とわかる。残りの一人は、消去法でもりたじゅんの絵なのだが、私の知ってるもりたじゅんはこんな絵じゃない。ちょっとは似ている……ということすらない、別人の絵だ!  もりたじゅんって、本宮ひろ志と結婚してほとんど引退したみたいになってたからなあ。年月が絵を変えたのだろうか。でも、本宮ひろ志のほうは結婚してマンガの女キャラがぜんぶもりたじゅんの描く女そっくりになって、そのまま今に至っている。てっきりヨメさんの絵も変わってないもんだと思っていた。そうか、子育て終えてから復帰してたんですね。と、表紙のイラストだけでも、当時を知るファンにはいろいろ考えさせてくれる本です。  しかし、内容は、「懐かしのマンガ家の懐かしい話」を超えるものはない。どういうきっかけでマンガ家を目指し、どうやって人気作家にのしあがったかが思い出とともに語られて、つまり老人のいい気な自慢話だ。これは!と思うようなエピソードもない。この人たちは、今もマンガ家として露出している。でも、こうやって紹介されている作品を見て「これを読むと今がわかる」という気にならない。ただの楽しい暇つぶしである。しかしベテランてのはそういう存在で、そうなることが正しい(=若者に道を譲る)のだ。
新書の小径
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テレビの金持ち目線──「生活保護」を叩いて得をするのは誰か
テレビの金持ち目線──「生活保護」を叩いて得をするのは誰か
生活保護バッシングがこの頃盛んである。マトモに働きもしないで生活保護もらってパチンコやって遊んでる社会のクズ、あるいはうつ病とか称してマトモに働かず会社休んで周りに迷惑かけてる社会のクズ、などの撲滅が叫ばれている。和田さんは、それに対して「ちがいます」とはっきり書いている。生活保護バッシングすることが結局は暮らしづらい世の中にしちゃうことなんですよ、と。私は和田さんの本を初めて読むのですが、見た目だけで「東大医学部卒でちょっと顔がいいチャラチャラしたマスコミ医者」と思っていたことを反省します。内容については何も言うことがない。  気になるのは、本のタイトルを見て「あ、これは生活保護バッシングについて批判する本だな」とわかって、その批判を読みたくて手に取る人がどれぐらいいるのか、ということだ。読んで「ほんとになー、生活保護批判て、いつ自分がそれをもらう立場になるかもわからんのに」と思う人がどれだけいるか。あるいは「ああそうか、確かに生活保護批判とかしてる場合じゃねえわ」と思う人がどれだけいるか。  なんでそんなことを言うかというと、これが20年ぐらい前だったら、この本に書いてあることは常識と考えられていた気がするからだ。昔もそれなりに生活保護とか、国が個人に対して保護や支援をすることに文句をつける人はいた。しかし文句つけつつも「こりゃ通らねえよなー」という半笑いのようなものがあったと思う。今はどうも、その頃のソレとは雰囲気が明らかに違っていて、マジで「生活保護撤廃!」が世界の正義だと思い込んでいる人数が増えているようで、ブキミだ。  和田さんは「生活保護についての誤った情報を大きな声で言っているのは誰か?」と問うているが、それを読んで和田さんを「陰謀論を語る男」扱いする人間がいるだろう。その数は千人なのか1万人なのか10万人なのか。まったく想像もつかない。あんまり知りたくない気もするが。
新書の小径生活保護
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サイバー・テロ 日米vs.中国
サイバー・テロ 日米vs.中国
タイトルを見て、ネットワークのサイバー攻撃をエゲツなくやってくる中国に対して、日米が手を携えて対抗している、というような内容かと思ったら、中国もロも米もそれぞれやってるから日本も気をつけろ、という話だ。別に中国だけの話じゃない。太平洋戦争の頃は、ABCD包囲網なんていって補給路を断って日本を追い詰めたりした。そんなことは国家間の争いで相手をイヤな目に遭わせたいとなれば当然考えることで、現在は「ネットワークがいろんなものの生命線になってる」から、そこを狙うというのである。  「これが国家によるサイバー攻撃であろう」と思われるもの(国家はサイバー攻撃をやったと公式に言わないので、状況証拠だけで「たぶんやってる」と想像される事例)も紹介されていて、「ネットが切断されて全機能マヒ!」させられたらどれだけ困るかが縷々説明される。で、そのサイバー攻撃は、プログラムをうまいこと外部から操作して、ふつうの人がふつうの操作をしていると、知らないうちにアクセスが集中してシステムをダウンさせる、というような方法の攻撃らしい。  かみくだいて言えば「何万人という人の家の電話に、勝手に政府への問い合わせFAXを発信するプログラムを仕込み、そのために電話がパンク……」というような攻撃、というかイヤガラセというか。以前、宅八郎は一人でこれをやってたが、サイバーテロはこれをプログラムにより大量のマシンでやる。科学は進歩するなあ。  ネットがつながらないと確かに困る。私のようにレンコンのゆで時間を調べたり……というような下世話な話ではなく、もっと大金が動く銀行のオンラインとか重要情報がやりとりされる政府のオンラインとかが切断されて国家規模でたいへんなことになるのだ!と著者は警鐘を乱打している。中国に限らず、アメリカでもロシアでも韓国でもそのへんの個人でも、いつでも警戒しとけよ、ということだ。まずは自分のパソコンの管理をしっかりしとけと。
中国新書の小径
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足利義満 公武に君臨した室町将軍
足利義満 公武に君臨した室町将軍
日本文化といえば、平安時代と江戸時代という感じがある。源氏物語と平家物語と忠臣蔵と水戸黄門。テレビと映画は、戦国時代と江戸時代である。どうも肩身が狭いのが飛鳥天平時代と室町時代だ。大河ドラマでも室町ものは視聴率が悪いらしい。飛鳥天平は宝塚歌劇ではドラマチックなのに、なぜか大河に取り上げられない。やはり天皇が兄弟で争ってるからか。室町時代の初期は二つの皇室があった南北朝なので、天皇関係にびくびくしてしまって、扱いづらいのかもしれない。でも、室町時代は面白いよ。雅楽や舞楽はどうにも異国風味だけれど、美しくかっこいい能が出てきて、室町に至ってついに「日本人のつくる日本の美」が確立した感がある。  その室町時代の、最重要人物である足利義満。私はこの人が世阿弥のパトロンであったこと以外に興味はなかったんだが、簡潔なタイトルであえて新書で出たことに興味をひかれてこの本を読んでみたら、実にまじめな足利義満研究の書だった。まじめで、面白い。  前半は、義満という男がどのようにして後世に伝えられるあの「義満」になっていったか、「義満」となってどんなことをやっていたかに費やされている。そして本書のキモは「日本国王」と名乗り、天皇になりたがった男としての足利義満研究だ。天皇になろうとした男に弓削道鏡がいて、後世極悪人とされたが、足利義満は悪くは言われるものの、道鏡ほどの目には遭っていない。最上位のまま、ちゃんと畳の上で死んでいる。これを読むと、その理由もわかる。周囲の空気と天皇家の状況、そんなものが合わさって、「もしかしたら天皇クラスの称号もらってもいいカモ」程度の軽い気持ちの話が、何しろコトは天皇であるから大ごとになったって感じである。  当時から、やっぱり天皇ってすごかったのだなと思わされる。21世紀に至って日本人が天皇制をよりどころとするのも無理はないなあ。と、そこのところにもっとも感心してしまった。
新書の小径
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この話題を考える
人生の後半戦こそ大冒険できる

人生の後半戦こそ大冒険できる

「人生100年時代」――。「20歳前後まで教育を受け、65歳まで働き、その後は引退して余生を楽しむ」といった3ステージの人生は、すでに過去のものになりつつあります。だからこそ、大人になってから人生後半戦にむけての第2エンジンに着火したい。AERAでは10月28日発売号(11月4日号)で特集しています。

50代からの挑戦
お金持ちの正体

お金持ちの正体

お金持ちが増えている。民間シンクタンクの調査では、資産が1億円以上の富裕層はこの10年以上、右肩上がりで、いまでは150万世帯に迫る勢いだ。いったいどんな人たちがお金持ちになっているのか。AERAでは10月21日発売号(10月28日号)で特集します。

お金持ちの正体
人気企業に強い大学

人気企業に強い大学

今春の各大学の就職状況が明らかになった。人口減による「売り手市場」が続く中、学生たちは大手企業にチャンスを見出し、安定志向が鮮明になった。「AERA10月21日号」では、2024年主要大学の大学生が、人気企業110社に就職した人数を表にまとめて掲載。官僚離れが進む東大生が選ぶ企業、理系女子が強い業界、人気企業の採用担当者インタビューまで最新の就職事情を余すことなくお伝えします。

就職に強い大学
心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック
心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック
ついに高橋幸宏まで新書界に進出か。それもPHP新書。PHP新書というのは、有名出版社新書の中でも編集がテキトーな感じがする(あくまで私見)。中原淳一が雑誌「ソレイユ」を出したと平気で書いてある。それ、「それいゆ」だろう。そんなチェックもできないのか、とふだんならハラを立てるところだが、この本はそんなにハラも立たない。  というのも、これ、高橋幸宏が音楽について語り下ろした本で、全体にゆる~い空気が流れており、そんな固有名詞の間違いなんかど~だっていいような気分になるのだ。そもそも金持ち家庭の息子なのである。軽井沢に別荘があって、そこで合宿して(というよりもたむろって)バンドやってんだもん。金に余裕があるからこその鷹揚さとオシャレさ。品がよく威張らないので、こちらも「いつかこいつを引きずり下ろしてやる!」という気分にもならない。ただ「ああ……負けた」とアキラメの微笑みが浮かぶだけだ。  私が高校生の頃にYMOが流行り、文化祭で「口三味線によるライディーン」をやったものだが、アーティストと客の格差というか、客である私たちのダサさというか、それは単に貧乏およびセンスの無さからくるものだったのだなあ。貧乏人がセンスの良さでのしあがることって、めったにないことなんだ。日本は階級社会なんだよ。  こう、ミュージシャンが音楽について語った内容を無視した書評だと、何か「あえて」の狙いがあるかと思われるかもしれない。そんなことはない。読んで感じるいちばん大きなものが「高橋幸宏ってほんとにステキな金持ち」ってことなんですもの。カッコイイ音楽をつくるのはこういう金持ちなんだ、それならもうその方面はすべて金持ちに任す、というスッキリした気持ちなのである。とはいえここで紹介されている幸宏さんの好きな音楽で、私が好きなのが一つもない。同じ時代に同じシーンのバンド聴いてたのになあ。このすれ違いぶりに感動してしまう。
新書の小径
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検察 破綻した捜査モデル
検察 破綻した捜査モデル
思春期にロッキード事件に遭遇してしまったもんで、「検事総長」「東京地検特捜部」はものすごいかっこいい存在として刷り込まれてしまっていた。その後、ロッキード裁判批判および立花隆によるその反論が「朝日ジャーナル」に連載されたのも大きかった。当時の検察関係者、布施健、安原美穂、吉永祐介なんて名前は一種のヒーローでした。  そんなヒーロー製造機の検察もその後、不可解な撤退戦や、アリャリャというようなみっともない不祥事などが続々出てきて、「やっぱり体制側など信用してはならぬ」というところに落ち着いてしまった。この本は、なぜ検察が、証拠品の偽造までする情けない組織になったのかを解き明かす。  読んで「やりきれんなー」と思う。それは検察がヒーローであったのも、ダメ組織となったのも、すべて日本人の日本人らしさがそうせしめた、としか言いようがないからです。  つまり「正しいことをやる」ことが「組織を守る」「秩序を守る」、ひいては「日本を守る」ことにつながる。ところが、「我々は正しいことをやっている」というのは、心にやましいところがあればあるほど「絶対に我々は正しいのだ!!」とばかりに周りを顧みなくなっていく。それでいい方向に出ることもあるけど、まあ、だいたいが悪い方向に行くわけだ。数々の冤罪事件を見ればそれはわかる。記憶に新しいのは厚生労働省の村木さん事件である。はっきりした証拠改竄(かいざん)ゆえにすぐにバレた。その点では「日本の検察も仕事が雑になった」と嘆くべきかもしれないが、この場合は雑でよかったのだ。なんともはや。  著者が新聞記者だから知ることのできる検察官の素顔もあって、チェ・ゲバラと高橋和巳の本が本棚にあった反骨検察官が紹介されている。が、正直「またかよ」の感が強い。堅い職業のエライ人ほど、私生活の趣味の評価は甘々でイヤになる。私生活なんかどうでもいいから、仕事だけの評価ができないものか。日本人にはムリか。
新書の小径
dot. 10/10
町の忘れもの
町の忘れもの
写真を見せるための新書。こういう試みが今まで皆無だったわけじゃないが、今までにあった中でこれがいちばんイイ。いや、実際は写真より文章のほうが多いのだが、挟みこまれる写真が、道路にころがってるビー玉みたいにキラッと光っては目に焼きつく。  すべてモノクロ写真。そして、美しいものを撮った写真でもない。昔はふつうにあって意識さえされなかったものが、年を経て古くなって、誰にも顧みられることもなく消えていく。「これ、なんですか?」と聞く気すら起こらないような、路傍のガラクタがほとんど。その手のガラクタをモノクロで撮った大判写真集とか写真展などは今までにいくつもあり、そういうものには何の感銘も受けなかったのに、この小さな写真は、見ているだけでじわーっとくる。なんなのだろう、この差は。  たぶん、文章の力だ。なぎら健壱は東京の下町のことを書くのがうまい。あんまりオシャレにもならず、下世話にもならず、淡々と書いてるその淡々さが「東京の下町で生まれて育った」感を自然に感じさせるのだ。私のようなヒガミっぽい者は、下町育ちをあまり押し出されると「そうかよ、東京の下町ったって東京のど真ん中だろ。都会育ちがそんなに自慢かよ」とすぐハラを立てるのだが、なぎら健壱に関しては怒りが湧かない。それは書き方もうまいこともあるし、「あえて古くて消え去るものを愛でるのがオシャレ」のようなあざとさを感じさせないからだろう(それこそが「なぎら健壱の超絶テクニック」なんだけど)。  文章のほうは水のようにするすると流れていき、小さく載った写真だけが美しい記憶のように残る。でもそれもやがて忘れる。お茶屋の店頭で芳香を放っていた、ほうじ茶焙煎機の写真なんか、ここで見なければ一生思い出さなかったかもしれない。  香りとともに蘇ってくる昔の思い出。でもそれは明日になれば忘れるだろう。忘れてもいいよ、と写真が言っている。
新書の小径
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AKB48白熱論争
AKB48白熱論争
何か好きになったらその事柄についての論を読みたい。私はAKBのファンなので、AKBについてならなんでも読みたい。それが共感できる意見であれば「そうだそうだ!」と嬉しいし、思わぬ視点を提示してもらえば驚き、モヤモヤしていたものをズバリとコトバにしてもらうと爽快感を覚える。  その点でいえば、私にとってこの本はすべてにおいて物足りませんでした。何しろ、メンバーが多いとはいえ、私の推しメン(=ご贔屓メンバー)の名前が一回も出てこなかったからなー、見事に。まあそれはいいとして、のっけから、先日の総選挙開票時における篠田麻里子の「(上がつまってると言うなら)潰しに来い」の発言をホメ讃えている。小林よしのりなど「あの発言は今回の白眉だよ」とまで言っている。バカな。こんなのはヤンキーがよく言う、ありふれすぎてつまらん発言で、つられて渡辺麻友まで目を据わらせて「来年は一位を取る」としょうもない啖呵を切ったりしちゃったという、総選挙全体をダメにした戦犯発言だ。それを論者全員、ガン首揃えて感動している。ええええー!?  しかし読んでみて、小林よしのりは見直した。小林のAKB好きは本気だ。本気とは、好きなあまり余裕もなくなり、みっともなくなることを厭わないということだ。それに比べると小林以外の(中森明夫はいっちょかみの立場だから除くとして)宇野常寛と濱野智史は「AKBを語る時にかっこつけようとしている」のが見えるので鼻白む。そんなかっこつけてる余裕ないんですよ、と言外に主張してるがダメである。隠しても溢れ出るアカデミックな自己主張が鬱陶しい。  これなら2ちゃんねるの、メンバー個別スレッド読んでるほうが、蒙を啓いてくれる意見はあんまりないけれども、「オレもうダメ……」というファンたちの真情の吐露が共感できる。かつ面白く、感動すらする。AKB論壇でいちばん良質なものは2ちゃんねるに在り。……言いすぎか。
新書の小径
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さよならビートルズ
さよならビートルズ
日本洋楽史。へんな言い方だけど、そうとしか言いようがない。第二次大戦後に、米軍とともにアメリカ音楽を流すラジオもやってきて、エルビスでびっくりさせられ、ビートルズでポカーンとしてしまった。当時の日本の状況を一口で言うとこうなるが、この本はビートルズ人気が爆発するまでに、いろいろあったエピソードを紹介していて、それが情けなくていい。  ベンチャーズの初来日はメンバー二人だけでベースとドラムが日本人、おまけにベースはウッドベースとか。リヴァプール・ファイヴというグループが来たんだけど、日本側の要請でむりやりリヴァプール・ビートルズって名前にさせられたとか。でもその気の毒なリヴァプール・ビートルズの機材がすごくて、聞いたこともないすごい音を発したもんだから日本人のバンドマンがひっくりかえったとか。そりゃねえ、「ハァちょいとブギウギ」とやってた国にいきなりバンドサウンドが来たら目の玉むくし、大人は「とにかくこんなものは排除」ってなことになりますわな。  タイトルは、ビートルズで日本の音楽シーンが大きく変化したが、それが今ほとんど「洋楽離れ」といえる状況にまでズルズルと進んでしまったことを嘆いて「さよなら」と告げているみたいだ。でも、今現在の音楽を聴いている若い人だって、それなりの苦労をして、喜んだりガッカリしているに違いない。だから、昔を知る人間が「音楽ちゅうんはなあ、こんなもんやない」と叱ったって理解はされんだろうなあ。そんなことはわかっていてもなお「ビートルズの衝撃」は、じじいの繰り言として死ぬまでつぶやき続けたい出来事だったのだろう。  著者の中山さんの本は出るたびに買ってる。それは『吉祥寺JAZZ物語』って本の語り口が、あまりにも面白かったからだ。しかし、その本以外であの語り口には二度とお目にかかれず、これも違っていた。  またあの面白い語り口で本を書いていただけないでしょうか。
新書の小径
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