そんな苦境にあって、あと少しでノーヒットノーランの快投を演じたのが、62年の阪神・村山実だ。

 デトロイト・タイガースを迎えての第16戦、村山は直球と変化球を内外角低めに投げ分け、7回まで安打を許さない。

 4対0とリードした8回も、村山は先頭打者に四球を与えたものの、2死を取り、ノーヒットノーランまであと4人となった。

 ところが、次打者、マイク・ロークの左前へのライナーを張本勲が一度はグラブに入れながら落球……。エラー判定に一縷の望みをかけ、振り返ってスコアボードを見つめた村山だったが、無情にも「H」のランプがともった。

「ノーヒットノーランを意識していたが、大リーガーに打たれたのだから仕方がない」と気持ちを切り替えた村山は、9回にも安打を許したものの、1死一、二塁から後続を断ち、2安打完封勝利。日本の投手が9回を投げ抜き、米国を完封したのは、史上初の快挙だった。

 だが、全18試合のタイガース戦で、日本は4勝12敗2分と大きく負け越し、米国は依然として“超えられない壁”だった。

 村山の快投から4年後の66年、日本はドジャースを相手に8勝9敗1分と善戦し、大きな手応えを掴む。

 中でも全18試合に出場し、5本塁打を記録した巨人・王貞治の活躍が光った。

 第9戦で1号2ランを放った王は、第10戦でも2打席連続弾を記録し、「僕の一本足打法が大リーグでも通用することがわかった」と自信を深める。ワールドシリーズV4度の名将、ウォルター・オルストン監督も「あれだけ足を上げてバランスが崩れないのは素晴らしい。大リーグでもクリーンアップの一角を打てるかもしれない」と賛辞を惜しまなかった。

 王は68年にもカージナルスを相手に通算6本塁打を記録したが、日本は通算5勝13敗と振るわず、一歩後退となった。

 86年にはMLB選抜との日米オールスター対決が実現し、以後隔年開催されるようになるが、同年の日本は第5戦で1勝するのが精一杯(通算1勝6敗)。3対13と大敗した第4戦では、4回2死から落合博満が左翼線二塁打で出塁した直後、捕手、トニー・ペーニャが座ったまま二塁にけん制球を投げ、まさかのタッチアウト。メジャーでは「ルーティン(当たり前のプレー)」(ペーニャ)という“神送球”にしてやられた落合は「あんなのないよ」と唖然とするばかりだった。
 

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大谷も“日米の戦い”について言及