第5回ワールドベースボールクラシック(WBC)で、日本が米国を3対2で下し、3度目の世界一を実現した。
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過去2回の決勝の相手はキューバと韓国だったが、今回は初めて決勝で野球発祥の国・米国を下しての快挙という意味でも、“真の世界一”という思いを深めたファンも多いはずだ。
だが、侍ジャパンが躍進する以前の日本は、日米野球で米国に何度もコテンパンにやられ、“野球の本場”とのレベルの差に圧倒されっぱなしだった。そんな長い苦闘の歴史を振り返ってみよう。
まず昭和9年(1934)、日本が初めてプロチーム「全日本軍」を結成し、ベーブ・ルースらを擁するMLB選抜に挑んだが、16戦全敗に終わっている。
屈辱的な惨敗のなかで、今でも“伝説の試合”として語り継がれているのが、17歳の沢村栄治が先発した静岡・草薙球場での第10戦だ。
初回にルースを“懸河のドロップ”で三振に打ち取った沢村は、2回にもルー・ゲーリッグを3球三振に切って取るなど、米国を5回まで1安打に抑える。
7回にドロップの曲がりばなをゲーリッグに右翼席中段に運ばれ、0対1で敗れたものの、5安打9奪三振の1失点と大健闘。つい3カ月前まで京都商に在学していた“スクールボーイ”の快投に、コニー・マック監督も「サワムラを米国に送らぬか。2、3年でメジャーで使えるようになる」と惚れ込んだ。
その後、大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)に入団した沢村は、翌年の第一次米国遠征でも、3月17日のセネタース戦で7回まで無安打無失点に抑えるなど21勝を挙げ、米国人をも熱狂させた。
戦後は1949年に日米野球が再開され、3Aのサンフランシスコ・シールズが来日した。
だが、相手がMLB球団ではなかったにもかかわらず、日本は7戦全敗(六大学選抜戦を含む)に終わる。
黒歴史はなおも続く。51年は全米選抜、53年にはMLB選抜が来日も、日本は1勝13敗2分、1勝11敗とまったく歯が立たず、55年のヤンキースには0勝15敗1分と1勝もできなかった。