「主観はあえて隠さない」と話す。

 そう決めたのは、ヘイトスピーチに関する報道で知られる神奈川新聞記者の石橋学の姿勢に学んだからだという。石橋はヘイトスピーチやヘイト集団の活動に対して厳しい視点を崩すことなく、時に体を張って闘っている。当然、ヘイト集団をはじめ、いわゆる「ネトウヨ」などからも「偏向報道をするな」といった批判の嵐に襲われることになるのだが、石橋は少しもひるまなかった。それどころか紙面において「偏っていますが、何か?」と堂々と応答した。それは権力の暴走や、差別の存在に対して「中立」などあり得ないという石橋なりのメッセージだ。

 阿部はそこに、あるべき記者の姿を見た。

「たとえば他社を“抜く”ことは喜びの一つでもあったし、いまでもその重要性も理解できます。ただ、ぼく自身が、そこで満足してしまっていたような気がしたんです。本当にそれでいいのか。記者として、たとえば差別の問題にしても、闘いの先頭に立つことも重要ではないかと思うようになりました」

 取材の過程で阿部と知り合ってから7年が経つ。彼は常に「そこにいる」。強引に進められる辺野古の新基地建設の現場に通い、沖縄をめぐって飛び交うデマに抗し、ヘイトスピーチと闘っている。ネット上で悪口(あっこう)雑言をぶつけられ、影響力を持つ著名人から脅しめいた批判をされることもあるが、それでも彼の姿勢が揺らぐことはない。

 けっして阿部だけではない。沖縄紙の多くの記者が、こうした理不尽と対峙し、そして報じ続けてきた。

それぞれの持ち場で沖縄を知り、強いられた苦痛を理解し、これでよいのかと問うてきた。社会の一部はこれを「偏向」だという。

 バカな。冗談じゃない。それこそが記者の軸足ではないか。伝えるべきことを伝え、向き合うべきものに向き合い、報ずることの意味を常に考えている。

 果たすべき役割なのだ。それが新聞記者だ。