例えば伊藤詩織さんに訴えられた山口敬之氏は、徹底的に伊藤さんを貶める方法を取った。裁判では伊藤さんが「キャバクラ勤め」をしていたなどと嘲笑するように語り、自らの性差別意識をむき出しにしていたが、民事裁判で敗訴した後は仲間たちと「本当の被害者は笑わない」などと伊藤さんを攻撃し、むしろ社会的地位を奪われた自分こそが被害者であることを強調した。

 死を選ぶか、訴えた声を徹底的に貶めるか。そのような極端な方法でしか、「解決」できないと思い込んでいるのだろうか。声をあげた側が望むのは、事実が認められ、その上で謝罪を受けること。“それだけ”であることがほとんどだ。それはそんなにも難しいことなのだろうか。  

 性暴力は「どちらかがうそをついている問題」と、長い間、捉えられてきた。実際に性暴力裁判では、「立派な経歴を持つ中年男性」と「10代の女の子」「性産業で働いている女性」「性にだらしない女性」、どちらの「証言」を信じますか?という視点で「裁かれる」ことが珍しくなかった。裁判自体が性差別、法律自体が性差別、社会の空気が性差別。だから、性暴力被害者の声が真摯に聞かれることは本当に難しかったのだ。
 
 思想信条に限らず、男性というだけで高いげたを履いている性差別社会で、女性に見える景色と、男性の見えているものは違うのかもしれない。“彼ら”にとっては単なる刺激、恋愛、気軽な情事であっても、こちらからすれば恐怖、屈辱体験であることは少なくない。

 私自身、男性たちがふとした拍子にあらわにする無用な性意識には辟易してきた。「○○新聞の○○ちゃん、今日の女性記者のナンバーワン」などと、女性記者の容姿を楽しげにランキングづけしていたジャーナリストが立派なことをテレビでしゃべっているのを見ると、いまだに動悸がする。性暴力問題に関わる男性研究者(60代)が「毎朝行くカフェで若い女性店員と目があって。恋心は大切」とうれしそうに言うのを聞いて、言葉を失ったことがある。出張に向かう飛行機の中でずっと手を握ってきた……と知人の記者が教えてくれた立派な立場のキャスターが出てくるテレビはすぐに消す。

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男性の「立場」は女性が「黙る」ことで守られてきた