これを真に受け、最晩年には生の不安と死への衝動を赤裸々につづった「歯車」を書いた。私小説作家からは「芥川もはじめて小説を書いた」とほめられたが、自らの闇を突き詰めたあげく、実人生まで自殺で終わらせることとなる。周囲の評判を気にしすぎる性格が、死を早める一因となったのである。

 そんな芥川は、志賀を愛読し、生き方も尊敬していたが、その関係はやや一方通行だった。志賀は「誰の物も余り読まぬ方で、芥川君のものも余り見ていなかった」からだ。芥川に本をもらって作品に感心しても、その題名を忘れるほどで、好みでない作品についてはダメ出しもした。すると、芥川は反論するでもなく、

「芸術というものが本当に分っていないんです」

 と答えたという。(前出「沓掛にて」より)

 ただ、志賀にとってこれは危機回避のスタンスでもあった。芥川が神経質すぎるため、会ったときにはなるべくのん気に振る舞ったりしたという。ネガティブな人に巻き込まれないよう、身を守っていたのだ。

 しかし、それでも、批判されることはあるし、そうなれば腹も立つ。
「小説の神様」と呼ばれた志賀とて、普通の人間にすぎないからだ。

 そして、志賀を再三イラつかせたのが太宰だった。たとえば、小説『津軽』においてその作風を「ミミッチイ」「笑えない」「ケチな小市民の意味も無く気取った一喜一憂」などと批判。他人の作品はあまり読まない志賀とはいえ、こういう悪口はどこからか伝わるものだ。数年後、太宰がベストセラーを書き、時の人となると、座談会でつい嫌みを口にしてしまう。

「どうも、評判のいいひとの悪口を言うことになって困るんだけど」「こっちは太宰の年上だからね」などと前置きしつつ「あのポーズが好きになれない」「『斜陽』なんていうのも読んだけど、閉口したな」と、こきおろした。

 これが太宰の志賀嫌いの火に油を注ぐことに。連載中だったエッセーで、志賀が戦中に書いた「シンガポール陥落」を戦争賛美だとしてたたいたり「芥川の苦悩がまるで解っていない」と非難した。さらに「成金」「阿呆」「エゴイスト」「古くさく、乱暴な作家」「日常生活の日記みたいな小説」など、さまざまな表現で批判したあげく「売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と締めくくったのである。

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志賀の対処から学べる「トラブルを避ける極意」