呉座氏は、この政子の行為は「後妻打(うわなりうち)」という慣習に類似しているという。

「後妻打とは、前妻が親しい女たちをかたらって後妻を襲い、家財などを打ちこわし濫妨をはたらくことを言う。うわなりとは、古語で前妻を意味する『こなみ』に対する後妻、次妻に相当し、また第二夫人、妾を指すことも多い」

平安時代からあったことが確認される『後妻打』だが、江戸時代になるとルール化されたようで、『昔々物語』に武家や町方における作法が解説されている」

 ここでは、日本中世の離婚についても触れられている。

「これ(『昔々物語』)によれば後妻打は、男性が妻を離別して1カ月以内に後妻を迎えた時に使われる。まず前妻方から後妻の家に使者を送り、何月何日に後妻打を行うこと、使用する道具などを通告する。後妻側も仲間の女性たちを集め、道具を準備して応戦した。

 一般には元は用いず木刀や棒、竹刀などで互いに打ち合うとされる。しかし、木刀や棒を使うと大怪我につながるので、あまり使わなかったという。前妻側は後妻宅の台所から乱入し、鍋・釜・障子などを破壊する。折を見て仲人らが仲裁した」

 同じ日本でも、時代によって随分と異なる文化があったことに驚かされる。特に、北条政子の嫉妬については想像を絶するが、呉座氏は最後に、政子の立場を解説している。

結婚時の頼朝は流人であったが、その後、頼朝は武家の棟梁となった。伊豆の中規模の豪族である北条氏の娘にすぎない政子は、頼朝と身分的に不釣り合いになってしまった。政子が正妻の座から引きずり降ろされても不思議はなかったのである。そんな焦りが、政子を過激な行動に駆り立てたのではないだろうか」