裕次郎扮する伴次郎が恋人(浅丘ルリ子)との結婚を決意するくだり。銀座のビルの屋上で夜間ロケされた (c)日活
裕次郎扮する伴次郎が恋人(浅丘ルリ子)との結婚を決意するくだり。銀座のビルの屋上で夜間ロケされた (c)日活
映画のラスト。記憶を取り戻したヒロインと裕次郎のふたりが、物干し台でトランペットを吹く青年を見上げるシーン (c)日活
映画のラスト。記憶を取り戻したヒロインと裕次郎のふたりが、物干し台でトランペットを吹く青年を見上げるシーン (c)日活

 今年7月17日の命日で没後30年を迎える石原裕次郎さん。そんな裕次郎さんの代表作「銀座の恋の物語」は、同名主題歌とともに多くの人の記憶に残っている。実はこの歌、この映画のために作られたオリジナル曲ではない。前年に公開された別の映画の挿入歌だったのだ。

【感動のラストシーンはこちら】

 隔週刊「石原裕次郎シアターDVDコレクション」(朝日新聞出版)では、「銀座の恋の物語」(2号)を始めとした、名作の裏側を余すところなく紹介。特に、北原三枝さん・浅丘ルリ子さん・芦川いづみさん・藤竜也さん、浜田光夫さんなど共演者、著名人が続々登場する「裕次郎とわたし」はファン必読だ。その中から特別に、浅丘ルリ子さんが語ってくれた裕次郎のエピソードを紹介する。

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 銀座4丁目の旧服部時計店ビル(現・和光)の時計台からカメラが地上にパンすると、裕ちゃんが人力車を引きながら銀座の街を駆けていく――。監督は、松竹京都から来た蔵原惟繕さん。フランスのヌーベルバーグの映画をたくさんご覧になっていた方で、ほかの監督とはちょっと違う感性がありました。なんてしゃれたことをするのでしょう、と冒頭から引き込まれる作品です。

 ただ1961(昭和36)年に発売した「銀座の恋の物語」の歌が大ヒットして翌年に製作された映画でしょう。裕ちゃんの人気がものすごいになっていたから、人力車のシーンはひと気のない早朝の撮影。ほかに、松屋銀座店内や銀座通りが見渡せるビルの屋上でもロケを行い、それと日活撮影所内に造られた銀座のオープンセットをうまく組み合わせ、その違いが分からないくらい。ラストシーンで裕ちゃんと私が腕を組んで街を歩くところは実際に銀座で行い、確か、隠し撮りだったと思います。

 おかげで、日活出演作のなかでは、ロケ場所をきちんと覚えている唯一の作品となりました。いろんな地方でロケをしたと思うのですが、裕ちゃんや(小林)旭といるとあっという間に黒山の人だかりでしょう。“黒山”ってこういう状態を言うんだと思ったほどで、ただ「怖かった」という思い出しかないんです。その頃の影響で、今も人混みは少し苦手です。なのに裕ちゃんは特異な人で、ロケに出ればファンに囲まれ、撮影所でもスタッフに囲まれ、といつも周りに大勢の人がいたのに自然体なんです。だからみんなも自然と裕ちゃんに引き寄せられてしまうのでしょうね。

 そんな裕ちゃんとは楽しい思い出ばかりなんだけど、唯一、困ったのは遅刻魔だったこと。こちらは朝早くからメイクをして準備しているのに、待たされてばかり。そりゃそうです。調布の日活撮影所で撮影が終わってから、毎晩のように銀座に繰り出しては飲みに行っていたんですから、翌朝に支障が出ないわけがないのです。この時ばかりは、さすがに私も「裕ちゃん、いい加減にして!」と怒ってました。でも、裕ちゃんのあの笑顔で「ゴメン! ゴメンな」って言われると許せてしまう。劇中でも、伴次郎が約束の時間に50分も遅れて、部屋で待ちぼうけをくらった久子がふくれるシーンがあるでしょう。伴次郎は「ゴメンゴメン、待った? 怒ってるのかい? ダメダメ、その手は古いよ」と悪びれる様子もなく、久子をモデルに絵を描く準備を始める。まさに、あんな調子でした。

 お芝居に関して言うと、後半、交通事故に遭い記憶喪失になるのが難しかった。そして久子が記憶を取り戻すきっかけとなるのが、伴次郎との思い出の曲「銀座の恋の物語」のメロディーなのですが、一連の私の芝居を見て、蔵原監督は「憎いあンちくしょう」の榊田典子役もイケる!と、抜擢してくれたそうです。その後、蔵原監督には女性が主役の作品をきちんと撮っていただき、私の出演作100本目「執炎」(64年)へとつながっていった。ですので「銀座の恋の物語」は、私の女優人生においてもターニングポイントとなる大切な作品となりました。