「装甲板」は分厚い鋼鉄でできていたが、当時の日本にはこれをうまく溶接する技術を持っていなかった。そのため、「リベット」と呼ばれる鋲でつなぎ合わせていた。余談だが、溶接技術の低さは戦車の設計にも現れている。この「リベット」が武蔵の弱点となった。リベットは双方向の釘で打たれているような構造になっているため、爆発ではじけ飛んでしまうという欠点があった。

 続いて100機以上ともいわれる米軍機が到達。集中攻撃を浴びてしまう。20発ともいわれる魚雷が命中し、リベットが破壊、武蔵の中心部にも浸水してしまう。これが決定打となり、ついに武蔵は沈没することとなる。

 だが、なぜ武蔵がバラバラとなって海底にあるのか、という謎が残る。これについて、爆発研究所の吉田正典代表は「第2主砲塔の火薬庫が水中で爆発したのでは」と推測する。世界最大級の46センチ主砲3基を擁する武蔵だが、対航空機戦ではあまり出番がなかったため、火薬庫には多数の火薬があったという。これが水中で爆発したため、散り散りになったというのだ。この仮説はコンピューターによるシミュレーションで検証され、前から2基目にある第2主砲塔の火薬庫で爆発すると、武蔵の現在の沈没状況と重なることがわかった。また、これを裏付けるかのように、海底で火薬の缶の残骸が多数見つかっている。

 以上が番組で紹介された内容だが、実は武蔵が散り散りになった原因は、後に大和がバラバラになって沈んだ要因と似ている。大和は1945年4月に鹿児島県南西の坊ノ岬沖で沈んだが、この原因も第2主砲塔火薬庫の爆発と考えられている。こちらは艦が横転した際に海上で大爆発を起こしたもので、この時発生したキノコ雲は鹿児島県内からも見えたといわれている。水中で爆発した点で武蔵とは異なるが、いずれもこの第2主砲塔が引き金となった格好だ。

 ちなみに武蔵が沈没まで9時間以上かかっているのに対し、大和は2時間近くの戦闘で沈んでいる。これは米軍が武蔵の攻撃が艦の両側から攻撃を受けてもなかなか沈まなかった教訓を活かし、大和攻撃の際は片側に魚雷攻撃を集中させたためといわれる。

 武蔵と大和、その姿形は双子のようにそっくりで、「不沈戦艦」と謳われてきた。そしてどちらも壮絶な孤軍奮闘を遂げ、爆発四散し深海に眠る。大和型戦艦――やはり同じ“姉妹”だったということか。(ライター・河嶌太郎)