書簡の日付は3月29日。内蔵助が京都・山科に隠棲していたころである。茶屋で遊興して周囲の視線を欺く一方、仇討ちを推進しようとする「急進派」と「主家再興派」の板挟みで苦しんでいた。映画やドラマでは必ず描かれる場面、苦悩が最も深い時期だ。妻りくとの「山科の別れ」は翌4月。7月には浅野家再興の願いが絶たれ、丸山会議によって討ち入りが決まる。

 この書簡、独力では読めないので、家元に朗読してもらった。お家再興を最重要案件とし、「再三のお願い」「念押し」という切実なニュアンスが込められていることが理解できる。思わず前のめりになって筆跡を見た。内蔵助の苦渋の表情が見える気がする。

 茶席には、ほかにもいろいろな趣向がある。加賀藩6代藩主・前田吉徳から「義士忌茶会用に」と言われて拝領した茶しゃく、満が持参した文箱を作り替えた風炉先……。家紋は大石家の二つ巴でなく、なぜか三つ巴。家元によると、嫁入りに際し、一つ足したらしい。菓子は赤穂から取り寄せた「志ほみ饅頭」、討ち入り前にそばを食べたとされることから、そば席も設けられている。播州そばに合わせた酒は赤穂の大吟醸「忠臣蔵」と、何から何まで、赤穂浪士にこだわっている。

 全国で開かれている義士忌茶会では、赤穂浪士、吉良家の双方を供養する茶会もある。茶道宗徧流がそうだ。宗徧流の祖、山田宗徧は吉良上野介と同門であり、赤穂浪士の大高源吾の師だった。大高は吉良家の動向を知るために素性を隠して入門し、吉良邸で茶会が開催される日の情報をつかんだ。これにより、討ち入りの日が決まったとされる。茶道と討ち入りには、もともと深い縁があったようだ。

 富山の義士忌茶会は終日、にぎわっていた。男性も多く、制服姿の高校生や、平服の若者、記者と同じように茶道未経験と思われる人も……。本来なら初心者にはハードルの高い茶会が、「義士忌」となれば人が集まるのである。息が長く、普遍的な忠臣蔵人気をあらためて知る思いだ。

(ライター・若林 朋子)