南米エクアドル祭り「ママ・ネグラ」
南米エクアドル祭り「ママ・ネグラ」

 昨年、半年かけて中南米を縦断した。メキシコ・シティーまで飛行機で飛び、そこから一路南へ下った。メキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、そして南米最南端のアルゼンチンのウシュアイアまで、ローカル・バスを町から町へと乗り継いだ。一昨年までに訪れた国が93カ国に達していたので、以前から憧れていた中南米で100カ国を達成したいと考えた。地図を広げてみると、アメリカ大陸を南北に貫く竜骨のような山脈の雄大さに打たれた。是非この土地を体感したいと、縦断を決意した。

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 旅程を組むために調べてみると、ちょうど旅の期間は中米の夏、南米の春にあたり、祭の季節でもあるとわかった。以前、芸術文化交流に携わり、世界各地の民族音楽CDを集めている私は、祭と聞くだけで胸が高鳴る。祭はその土地の多彩な風俗がまとめて見られるよい機会だ。また、美味しい郷土料理やお酒が振る舞われる楽しい場で、人々との交流もしやすい。中南米は、今でも根強い先住民インディオの文化に、植民地時代のスペインの風習が融合して、独特の文化の宝庫だと聞く。一体どのような祭があるのだろう。インターネットや本を参考にルートと日程を調整し、できる限り多くの祭を見るよう努めた。

 その一つに、南米エクアドルの「ママ・ネグラ」という祭がある。赤道直下にある首都キト市から南へバスで2時間、エクアドル富士と呼ばれるコトパクシ火山を仰ぐ標高2,760メートルのラタクンガ市の伝統祭だ。1742年のコトパクシ火山噴火から町を守った、カトリックの女神メルセデスを讃えたのが始まりといわれている。「ママ・ネグラ」を直訳すると「黒い母」。16世紀、近郊の豊かな鉱山に目をつけたスペイン人によって植民地化されたラタクンガに、労働者としてアフリカ人奴隷が連れて来られた。原住民が彼らの肌の黒さに仰天し、彼らの到来と火山の神を掛け合わせて祭に取り入れたことに由来する。

 祭の中心は、町を上げてのパレードだ。私が訪れた昨年は、9月24日に行われた。ちょうど、乾期から雨期へと季節が変わる頃だった。この日は月曜日にもかかわらず、昼前から参加者が続々と町の中心にあるメルセデス教会前に集合した。子供からお年寄りまで、全員参加だ。色鮮やかなコスチュームを着けたダンサーの他に、様々な仮装の人たちもいる。先頭に立って道を清め、人々のお祓いをするのは「フアコス」と呼ばれる白面の男たち。それに続いて、長官と旗振り、馬に乗った星の天使、大使、ムーア王、そしてママ・ネグラ。さらに、パレードを盛り上げる大柄な女装、ピエロ、そして、アシャンガと呼ばれる豚の丸焼きに供え物をぶら下げた山車、吹奏楽団・・・・・・みんな楽しそうにおしゃべりしながらスタートを待っている。一体、どれだけの人々が参加するのだろうか。まさにカーニバルだ!

 警察のバイクが教会の前に並び、頃合いをみて出発した後、白い法衣の司祭を先頭にお参りの人々がメルセデス教会へと行進していく。その時、乳飲み子を抱いたメルセデス女神像が、教会の中から現れた。冠を被り白いドレスを着て少々憂いを讃えたふっくら顔で下々を見渡す若い女神の何と神々しいことよ!それを見て、人々が、お賽銭の紙幣を女神の衣の裾に取り付けてもらおうと、殺到した。

 参拝が一段落すると、長官や旗振り役が、女神の前で儀式を執り行った。次に星の天使、大使、ムーア王そしてママ・ネグラが一人ずつ馬に乗って登場し、女神を詣で口上を述べた上で,長官たちと友好の踊りを披露した。それが終わると華々しい音楽が鳴り響き、ついにパレードがスタート。フアコスが清めた道を、列に並んで待っていた人々が、踊り出し歩き始めた。ダンサーを先頭に、水やお酒などを運ぶ補助係や女装の盛り上げ役、重たいアシャンガを担ぐ若者たちと吹奏楽隊が一つのグループとなって、次々と通り過ぎていく。やかましいほどの演奏に合わせて、赤・ピンク・黄・青・緑のカラフルな衣装をさっそうと翻し、商店街から住宅地へと子気味よく踊りながら進んでいく。途中、胸突き八丁のきつい坂を勢いよく駆け上がったところで、近所の人たちが、チャンパスというトウモロコシ等で作った酒を振る舞っていた。私も一杯ご馳走になりながら坂の上から見降ろすと、グループがどこまでも途切れることなく連なり、まるで色の洪水だ。一体いつまで続くのだろうと思いながらパレードについていくと、そこから数百メートル先に、ママ・ネグラに登場するキャラクターが壁に描かれたカルバリージョ広場があり、その中心にあるイエス・キリスト像を載せた高い塔の前で一踊りして、前半が終了した。

 スタート時には快晴だった空に、黒雲が迫ってきた。そして参加者が広場周辺で休憩し始めた頃に、スコールが襲ってきた。人々があわてて、回りの出店のテントに駆け込む。私も一番近くの屋台に逃げ込んだ。激しい雨が、屋台のビニール屋根を打ちつける。端にいる若者たちは、屋根の端に溜まった水を棒でつつき出す。陽が射さないと、標高の高いラタクンガの気温は一気に下がって冷える。そのため狭いテント内で、人々は立ちんぼのまま自然と体を寄せ合い雨が上がるのを待った。その間でも注文は途絶えず、屋台の女将だけは熱い鉄板に向かって定食作りに忙しない。出来上がった皿を、バケツリレーのように手渡しながら待つこと30分、空に明るさが戻り小雨になってきた。すると人々は、今までの大雨などまるでなかったかのように、さっさとテントから出てそれぞれの用事を済ませに行き、カルバリージョ広場前に集合して、雨が上がる頃にはパレードを再開させた。そして上りとは別のルートで坂を下り、ポンチョやスカートに風をはらませながら、町の中央広場を目指して日が暮れるまで延々と踊り続けた。

 それにしても、賑やかでカラフルなパレードで、見ているだけで興奮した。途切れることのない大音量の演奏は、終わった後も耳の奥で鳴り続けた。高地の強烈な陽射しに映える鮮やかな衣装は、サングラスをかけていても眩しく、今でも目の奥に焼き付いている。また、混雑したテントや沿道でスリに会わなかったことで、祭を心ゆくまで楽しめた。偶然だったかもしれないが、いつもひとりで町を歩く時ほど緊張しなかった。スリや引ったくりが日常茶飯事の南米では、とてもありがたい。パレードの列には、普段は悪ガキとみられる兄貴たちも参加していた。ラタクンガ上げての文化祭は、人々の誇りなのだろう。秩序ある無礼講だった。

 縦断中、ママ・ネグラの他にも、カーニバルのようなパレードを見た。どれも、町の一大イベントで、普段は別々に暮らしている様々な人々が参加しており、原住民の精神世界に統治者スペインがもたらした宗教や風習、そしてアフリカ人奴隷の文化などが面白い形でブレンドされているものもあった。南米と聞くと、まず、植民地時代からの征服者による破壊や抑圧された原住民の苦しみを想像していた。確かに、原住民の苦労は想像を絶するものだっただろうし、現在でも暴力や圧政に苦しんでいる人たちがいる。しかし、実際に南米を訪れてみると、他からやって来る人々を拒絶できなかった土地の人々は、融合したり茶化したりしながらよそ者たちとも折り合いをつけ、自分たちの土地で誇りをもって暮らしていた。原色のコスチュームをあっけらかんと着こなし、空気の薄い高地でも一日中踊り続けるアンデスの人々の色と心は、彼らを照らす天空の太陽のように輝いていた。