『ぴあ』のインタビューでお薦めしていたにも関わらず、まだ行っていなかった『阿修羅展』を、ようやく観てきました。

 テレビや新聞で大人気大混雑という報道が続いていたので、なかなか行列に並ぶ覚悟ができなかったのですが、「もうそろそろ終盤、最終週はもっと混んでいるだろう、行くならこの週末だ」と決意して、5/23(土)に行ってきました。
 
 前回、映画館のネット予約の話を書きましたが、この『阿修羅展』も、携帯で今現在の待ち時間が確認できるようになっています。ほんとに便利になったものです。
「いくぞ」と決意した日から、たまにのぞいて確認していました。だいたい平日でも1時間待ちくらいでした。 
 週末は、それ以上だろう。1時間か2時間くらい並ぶんじゃないかと覚悟していたら、なぜかその日は昼から30分待ち程度。
 僕らが行った午後4時くらいも同様に30分程度ですんなりと入れました。

 その週に東京でも新型インフルエンザの感染者が出たばかりだったので、人混みを避けようという人達も多かったのかも知れません。確かに会場でもマスク姿の人を結構見かけました。
 
 会場に入るとまず興福寺の創建時に地鎮のために埋葬された鎮壇具(ちんだんぐ)が展示されていました。
 実は今書いている新作脚本の設定は、おおまかにヤマト王権と考えています。
 時代も国も厳密には設定していないのですが、だいたいその辺りの時代と風土をイメージしているのです。
 展示されているのは8世紀のもので、そのあとの飛鳥時代の物なのですが、それでも刀剣や鏡、皿、匙(さじ)などの道具の種類、それが作られている金、銀、真珠、水晶などという材質を見ていると、具体的なイメージが湧いてきます。
 書きながら「どうも何かが足りないな」と思っていたシーンに、「あ、こういう手があったか」と新しいエピソードを思いついたりしました。
「原稿書かなきゃいけないのにまずいなあ」と心の片隅で思いながら行列に並んでいたのですが、やっぱり机の前に座っていただけじゃ思いつかない事もあるんですね。 少しだけ気が軽くなりました。
 
 次の部屋に展示されているのが、八部衆(はちぶしゅう)と十大弟子像(じゅうだいでしぞう)です。
 元々はインドの神々でしたが、仏の眷属(けんぞく)として組み入れられたのが八部衆。
 好きなんですよね、彼らのデザイン。ちょっと戦隊シリーズの敵幹部のような雰囲気もして。
 もともと別の宗教の神が仏教に組み入れられて、仏に仕える身となっているというのも、敗軍の将が敵組織の幹部として迎えられているような感じがしてドラマチックです。真面目な人には怒られそうな意見ですが。

 阿修羅も八部衆の一人なので、位置づけ的にはここに並んでいるべきなのですが、姿はありません。
 阿修羅像を展示している部屋に入ると、人の群れ。
 さすがに人気があります。
 それも当然。美しさが違う。
 部屋に入って阿修羅像を見た瞬間思わず「きれい」と声に出してしまいました。 切れ長の目、すうっと通った鼻筋。穏やかな口元。
 見とれてしまいます。
 顔だけじゃない。三面六臂(さんめんろっぴ)という異形なのに、頭の大きさと手足のバランスも抜群にいい。
 月並みな表現ですが、本当に美しい仏像でした。 

 美しい阿修羅王と言えば、萩尾望都(はぎおもと)さんのマンガ『百億の昼と千億の夜』に尽きるでしょう。
 宇宙の滅亡という絶対的な理(ことわり)に対し、時空を越えて一人戦いを挑む美少女。その姿は間違いなく、この阿修羅像からインスパイアされていると思います。 かくいう僕も、『阿修羅城の瞳』という作品を書いています。
 恋をすると鬼になる運命の女と、鬼殺しの男の悲恋の物語なのですが、その中に「阿修羅は、現世(うつしよ)に童の姿を借りて生まれ、女として生きた後、鬼となる。三面六臂とは童、女、鬼の三位一体の姿」と言う台詞があります。書く寸前までそんなこと毛ほども考えてなかったのに、手が勝手に書いていた。自分でも驚いたので今でもよく覚えている台詞です。そして書きながら思っていたのはこの興福寺の阿修羅像でした。

 仏像は、実際には目には見えない神仏や宇宙の理を、なんとか具現化して人の形に落とし込んだ物だと思っています。
 目の前にある阿修羅像は、まさしくそういう存在です。
 1300年も前に作られた仏像が、21世紀の今になっても人々を魅了し続けている。その事実の凄さを改めて実感しました。
 
 今から1300年後、今の時代に作られた物で、ずっと人々に愛され続ける物ってあるんでしょうか。
 自分の作品がなんておこがましい事はとても言えません。
 でも、誰が作った物でもいいから、何か一つくらい、この時代からも生まれていればいいなと願います。