地雷という言葉に極度に敏感になっていた私は、地元の人を見つけるたびに、「この先に地雷はありませんか」と聞いていたが、誰もが私の問いを鼻で笑うばかりだった。「あるにはあるけど、砂漠のはるか彼方だよ」と彼らはいうのだ。実際のところ、旅行者が地雷を踏んだという話を耳にしたことはなかった。

 西サハラでは、私の家族もポリサリオだったよと話す人にたびたび出会った。今はどこで何をしているのか尋ねると、モーリタニアへ出稼ぎに出ていたり、魚を運ぶトラックドライバーをしていたり、モロッコのカサブランカでピザ職人をしたりと、生活をするための生業を求めて、故郷を離れているという声を多く聞いた。今もどこかで機関銃をたすき掛けに持って戦っているのかと想像していたが、聞こえてきたのは、生きるために必死になっている元ポリサリオの人々の姿だった。

 また、私が西サハラを訪ねた95年当時、ポリサリオが白人旅行者を襲撃したという情報に触れたことも、1度としてなかった。安全上の理由から、旅行者を守るためにコンボイを組むルールは、モロッコの建前にしか聞こえなかった。

 ダハラを出発する際には、帯同するすべての人員のパスポートが集められ、モーリタニア国境手前の何もない空き地で、コンボイは解散。そこでパスポートに出国印が押され、各自に戻される。モロッコはこの地点まで実効支配をしているのだと、この地点までがモロッコなのだと、暗に示そうというのがモロッコの本音なのだと、当時の私は感じ取ったのだった。

 西サハラで出会った人と話をしていても、その人がモロッコ人なのか西サハラ人なのか、当時の私にはすぐには判断がつかなかった。しかし、話し込んでいくと「私たちサハラウィは……」と口にする人々がいた。サハラウィとは、西サハラに暮らす民を表す言葉だ。互いの住所交換をしたとき、名前の後ろに小さくSaharawiと記す人もいた。「サハラウィ」を目に耳にするたび、ここは他ならぬ西サハラなのだとの思いが、彼らから伝わってきた。

 多数の地雷が残り、旅行者の往来が絶えず、ポリサリオ戦線は確かに存在し、しかし戦わずにピザを焼きながら家族を養っている。モロッコでありモロッコでない西サハラを訪ねた21歳の私は、ひとつの事実は多面体で構成されていて、見る人の立場によって情報の側面はさまざまに異なることを知った。

 そしてまた、このとき初めて、当事者の声や思いは、現地を訪ね、直接耳を傾けなければ、なかなか聞こえてこないものなのだとも、身をもって感じた。

 最後にサハラウィを訪ねてから、ずいぶんと時間が経ってしまったからだろうか。モロッコのAU再加盟を伝えるニュースをどれだけ頭の中で咀嚼しても、現在の私には、このニュースの行間に、サハラウィの声を見つけることができなかった。地雷と旅行者の両情報に同時に触れたときのような混乱が、再び、首をもたげてきている。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。ニュースサイトdot.(ドット)にて「築地市場の目利きたち」を連載中