このドゴン文化祭は、今回が初めての催し。マリだけでなく西アフリカ全体においても長く有名なドゴンの文化祭が、なぜ今になって初めて開かれることになったのかが気になっていた私は、この文化祭の開催趣旨をたずねた。

「ドゴンの文化を多くの人々に伝えるため、多くの人々をドゴンに迎え入れるため、ドゴンは安全な場所であることを伝えるために、この文化祭を開くことにしました」

 村長の言葉を聞いた私は、ドゴンの人々が、かなり切羽詰まった状況にあるのだなと感じた。

 「多くの人々」とは、西欧からの旅行者のこと。かつて、西アフリカを訪ねる西欧旅行者の誰もが、ドゴンを知っていた。バンディアガラの村々を巡る小道を曲がるたびに、白人旅行者と出くわすほどだったとも聞く。自らその文化を伝え、自ら旅行者を招き入れることをしなくとも、このような「文化祭」を開かずとも、彼らの地をあまたの旅行者が絶え間なく訪ね続けてきた。

 しかし現在、マリに観光客の姿は滅多に見られない。

 2012年、マリ北部の分離独立を求める勢力に加え、サハラ周辺に勢力を持つAQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)や、リビア崩壊後に武器とともに流入したさまざまな国籍の旧傭兵(ようへい)など、多種多様な勢力が複雑に合流しながらマリ政府軍への攻撃を開始。マリ北部から中部にかけてのほとんどの主要都市を占領した。

 2013年1月、マリ中部の大都市モプチにあと数キロまで迫りつつあった反政府勢力に、フランス軍が空爆で応戦。その後、複雑に合流した反政府勢力から、サハラに暮らす遊牧民トゥアレグ族などの分離独立を求める勢力は離脱を始め、マリ政府にとっての戦況は徐々に好転した。

 同年4月にはMINUSMA(=ミナスマ/国連マリ多元統合安定化ミッション)が設立され、北部の治安維持活動を開始。2013年8月に私がマリを訪ねた際には、主要都市の奪還をほぼ終えた状況だった。

 その後、主要都市が再び占領されるような事態は起こっていないものの、MINUSMAやマリ政府軍への攻撃は後を絶たない。また、2015年11月にはバマコのラディソン・ブル・ホテルが襲撃され、日本でもアフリカのニュースとしては大きく報じられた。

 このような状況のもとで、マリにあふれんばかりにいた外国人観光客は、激減した。バマコから遠く離れたバンディアガラのマスク・ダンスをバマコにいながらにして見られるにもかかわらず、この文化祭の会場には観光客と思しき来訪者はゼロ。十数名ほど見受けられた外国人のほとんどは、MINUSMA関係者だった。

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