だが、村井知事への叱責にはある理由があった。当時、宮城県では県と津波の被災者である漁業関係者が激しく対立していたのだ。
村井知事は震災後、漁業復興のための政策として「漁業権の開放」や「漁港の集約」など、漁業関係者に次々と“改革”を迫っていた。
これだけではない。宮城県の復興構想会議の委員となった12人のうち、宮城県在住者はわずか2人。岩手県の津波復興委員会の19人のメンバーが全員岩手県在住者であったことに比べて、「地元を軽視している」と批判されていた。震災復興計画についても野村総研が支援し、委員のほとんどは首都圏在住者だったため、村井知事が上京して復興会議が開催されている状態だった。
一方、龍さんは震災発生直後から防災担当相として災害対応の陣頭指揮をとっていた。原発事故の対応、生活物資の緊急支援、がれき処理など、次々に降りかかる難題を処理しながら、被災地に繰り返し足を運んだ。その時も、被災者の声に耳を傾け、その話をもとに国としての対応を決めていた。そういった時に、村井知事と面会することになったのだ。
面会後の報道は批判一色で注目されなかったが、この時に龍さんは、村井知事に「(漁業の復興計画は)県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」とクギをさしている。龍さんにとってみれば、トップダウンで復興計画を決めようとしている村井知事に対して、被災者の怒りを知事に直接ぶつけたつもりだったのだろう。
だが、世の中はそうは受け止めてくれなかった。当時、震災対応の批判や民主党内で政争が相次ぎ、菅直人内閣の支持率は3割を切っていた。国民の不満は爆発寸前で、龍さんの発言の方が「国からのトップダウン」、村井知事の姿が「現場で奮闘する知事」に映ってしまった。
たしかに、漁業権を「既得権益」とみなして村井知事の方針に賛同する人はいた。一方、近年の研究では、江戸時代から長い時間をかけて形成された漁業権を中心とした「浜の秩序」は、経済合理性が高く、環境面でも持続可能な制度だと評価する専門家もいる。