<村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である>
「もともとはガンジーの言葉だそうです。龍さんは、この言葉の最後に『たとえ血だらけになろうとも』と勝手に付け加えていました(笑)。その土地に住んでいる人の思いと、地域社会の将来を誰よりも大切に考えていた人でした」(店の常連客)
政治家としての実績では、10年9月に就任した環境相時代が知られている。大臣就任1カ月で国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で議長を務め、名古屋議定書の採択を成功させた。この時は、先進国と意見が対立していた発展途上国に対して丁寧な対話と交渉を重ねた。同年11月には新潟水俣病の被害者と面会し、環境相としてはじめて謝罪した。いずれも、立場の弱い人と誠実に話をすることを基本姿勢にしていた。
COP10の交渉過程を記した著書『環境外交の舞台裏 大臣が語るCOP10の真実』(日経BP社)では、自らの生き方についてこう話している。
<私はある時から、人間は一人ひとり皆、違う悲しみを抱えているんだと思うようになりました。日本に1億2000万人の人がいたら、悲しみも1億2000万通りあるのだろうと。(中略)それからですね。悲しいことに寄り添うとか、肩をたたき合えるとか、そういう人間になりたいと考えるようになった>
だが、この“優しさ”が11年7月3日の暴言問題を引き起こす要因となってしまった。
この日、復興相に就任して初めて被災地入りをした龍さんは、午前中に岩手県の達増拓也知事と面会。「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない」「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん」と語った。際どい発言ではあったが、面会に参加した人の多くは、龍さんが被災地の現場に足繁く通っていることを知っていた。そのこともあってか、面会は大きな問題もなく終了した。
激しく批判をされたのは、宮城県で行われた村井嘉浩知事との面会だ。村井知事は応接室に入室した後に握手を求めたが、龍さんが拒否。「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ」と厳しい口調で注意した。さらには報道陣に「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。『書いたらもうその社は終わり』だから」と発言。その言葉がテレビで繰り返し報道され、「被災者を見下している」などと批判された。それからわずか2日後の7月5日、復興相を辞任した。