私が産業医を志望した時、先輩医師から「感謝されない医師を目指せ」ということをよく聞きました。今ではその意味がよく分かります。
また予防医学の分野では、個人ではなく集団に対するアプローチが重要です。
屋内を全面禁煙にすること。長時間残業が常態化している会社に対し、社員への健康影響の観点から働き方を改めてもらえるよう経営層に訴えること。これらも予防医学の活動です。
これらの活動は、医師を目指す多くの方にとって極めて地味にうつることでしょう。予防医学の分野は「言うは易し、行うは地味」な分野なのです。
もともと医師は、言うことを聞いてくれない人を説得することが実はあまり得意でないタイプが多い。なぜなら普段、医師のもとを訪ねてくる患者さんは「痛い」とか「苦しい」というような主訴があります。そういう人は、医師の言うことを素直に聞いてくれます。そんな関係性に慣れると、自分の話に興味のない人に耳を傾けてもらうよう努力することがおっくうに感じられてしまうのです。
医療機器やAIの発達で、職人芸としての専門性を発揮できる分野は狭まり、予防医学の分野では医師は分かりやすく感謝される職業ではなくなる――。こう聞くと医師の将来像をえらく味気ないものに感じてしまう人もいるかもしれません。
しかし、私は医師という仕事は今後もやりがいがあり、エキサイティングな仕事であることを疑っていません。
そもそも人体の仕組みは世界統一規格。解剖学や生理学など学んだ体系的な知識が無駄になることはありません。学生時代に学んだ知識がアップデートは必要とはいえ、後々にまで役に立つ。これはこの時代にはすごいアドバンテージです。
例えばプログラミングの分野では自分が習得したC言語が、ある時を境に使用されなくなるということもあります。このようにベースとなる前提が変更されることは医学にはない。
また習熟した手仕事としての職人芸が発揮できなくとも、「患者を救う」という医師の基本姿勢は変わりません。また対象範囲が広いため感謝されにくい予防医学でも「患者(予備軍)を救う」という大義に変わりはありません。