江戸には水をお祀りする神社が多く存在する。これには神田上水をはじめ大工事を要した玉川上水に対する人々の水への熱い願いと思いがあったからだ。
江戸の町の人口は、江戸幕府が開かれた頃には15万人だったと推計されているが、太平の世となった18世紀初頭には、100万人を超えたと考えられている。これは、同時期のロンドンやパリの人口をはるかにしのぎ、世界一に近い規模の町ということになる。
●江戸の増え続ける人口を支えた水源
爆発的な人口増に対応するため、土地の埋め立てが盛んに行われたが、一番苦しんだのは飲み水の確保だった。なにしろ、江戸の中心であった江戸城周辺の多くは埋め立て地であり、加えて時代をさかのぼれば、はるか内陸まで海岸線が入り組んでいた地形だった影響で、井戸を掘っても海水の混じった水が上がってきていた。
徳川家康が入府した当初は、井の頭池を水源とした神田上水が作られ、江戸の町に初めての水道網をひいていたが、これだけではとても江戸庶民が必要とした水量をまかなえず、50年余年後には、新たな上水工事に取り掛かることとなった。これが、玉川上水である。
●全長43キロの難航工事を8カ月で
玉川上水は全長43キロ、羽村市から新宿四谷までの距離をわずか8カ月で完成させた。多摩川の水を江戸に運ぶための上水の取水口の設置場所に2度失敗、加えて四谷までの高低差が100メートルしかなかったため工事は難航をきわめた。幕府が用意した6000両の資金は完成を前に底をつき、工事を請け負った庄右衛門・清右衛門兄弟は自らの家を売って費用にあてたのだという。この難工事を完成させた功績から、二人は玉川の名字を賜る。後世に名を知られる「玉川兄弟」である。
それでも、計画から1年半後には江戸の町への通水が始まったというから、驚異的なスピードである。それほど江戸の町は水を欲していたのだろう。
●江戸中心には高度な水道網が
江戸の町に入った上水は、地下に張り巡らされた「樋(とい)」と呼ばれる水道管へ流された。江戸っ子の啖呵をきる常套句として「水道の水で産湯を使い……」というものがあるが、これは近代設備のある江戸の生活を誇ってのこと。