水漏れが少ない「木樋(もくひ)」や「石樋(せきひ)」、水の濾過や流れを調整できる「枡」、桶で作られた上水井戸など、江戸の外に住む人々に自慢するほど完成度の高いシステムだったのである。時代劇などによく登場する井戸のほとんどは、正確には上水から流れ込む水が樽に貯められたものだった。
しかしながら、この水道網も隅田川の対岸(東側)には届かなかった。本所深川あたりの飲料水は、「水屋」という水売りと、「水船」という上水の余り水を隅田川を越えて運んでいた人たちが支えていたのだが、これは明治31年の近代水道網が完成するまで続いていた商売である。
●上水と桜の関係
さて、これほど江戸の町の水を支えていた上水の沿道の管理は厳しく、水浴びや洗い物の禁止はもちろん、水路の両側は保護地帯に指定され、各所に水番所や水衛所が設けられ、番人が置かれた。取水所である羽村には、今も水の管理全般を仕切った「玉川上水羽村陣屋」の跡が残されている。
また、両岸の堤を堅固にする目的として桜が大量に植樹された。桜が選ばれたのは、花見に訪れる人々に土が踏み固められることと、桜の花びらによって水が清められるという俗説によるものらしい。これらの桜は、羽村、小金井、三鷹など、今なお春には多くの人々の目を楽しませている。
とはいえ、命の元とも言える水を守るのは番人だけではなかった。羽村陣屋そばの玉川水神社に始まり、御嶽神社、八雲神社、水神社、秋葉神社などが各地の両岸近くに鎮座するほか、観音像や小さな祠などが流れのそばに多く見て取れる。
いずれも水を守り疫病を防ぐ神々であるが、43キロもの長さを持つ露天掘りの上水を、明治時代まで守り続けられたのは、神仏の前で水を汚染するようなまねはできないという、この地にすむ人々の良心という神さまのおかげなのかもしれない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)