そんなことが2、3回繰り返されれば、「市民運動」という響きがどんどんうさんくさいものになっていく。市民運動に「危険」とか「テロ」とか、そういうイメージを植え付ければ、それだけで十分だ。市民運動に参加しようという市民は激減していくだろう。さらに市民団体のほうも、つぶされたらたまらないから、非常に閉じられた運動にならざるを得ない。市民運動は自然消滅の道をたどることになるだろう。

 市民運動をつぶすことに飽きたら、他の分野にこの手法を応用するのもいい。例えば、教育界へ介入しようと思ったら、教員で市民運動に参加している人を一人捕まえてしまえばいい。教員が学校現場の外で一個人として参加していただけのことだが、市民運動は「危険」だというイメージが浸透していれば、世間は必然的に学校に対しても責任を求めるだろう。必要以上に「政治的中立性」を求める声に、学校現場が萎縮すれば、政府に都合の悪いことを教える教員などいなくなる。政府に従順な国民が育っていくというのは、実に素晴らしいことだ。

 同じような働きかけを経済界に対してやるのも面白い。政府に批判的な企業の社員を捕まえて、その情報を週刊誌に流せば、企業の社会的な信頼は失墜する。企業の側としては狙い撃ちされたくないから、政治資金を提供してくれたり、選挙の動員に協力してくれたりするかもしれない。経済界が「お友達」だらけになるなんて、なかなかおいしい話だ。

 そんなことを繰り返していたら、きっと大多数の国民が、政府と同じ方向を向いてくれるようになる。権力基盤は磐石になる一方だ。そうなれば、ある程度好き勝手していても、許されるに違いない。「テロ等準備罪」は実に便利なものだ。どうしようもなく愉快で仕方ない。……。

 そんなことを考えていたら、あっという間に目的地に着いてしまった。
まだまだいくらでも「テロ等準備罪」を応用する余地はあるように思えて、何だか寒気がした。

 あくまでこれは僕の妄想にすぎない。実際にはそんなにうまくいかないかもしれない。でも一度、権力を手にしたら、あらゆる方法を使って、それを保持し続けたいというのは、どんな人間の中にも存在する心理だと思う。

 その意味では、誰が独裁者になってもおかしくない。民主主義の中から、事実上の独裁体制が生まれてもおかしくない。「テロ等準備罪」は、それくらいの危険性をはらんでいると僕は思うのです。(諏訪原健)

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