哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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私事にわたって恐縮だけれど、娘の内田るんと共著で『街場の親子論』という往復書簡集を出した。父娘間の往復書簡は寡聞にして類書を知らない。仲の良い父娘というのはもちろんたくさんいる。娘が父親の風貌を回顧的に、愛情をこめて描くという作品は幸田文の『父・こんなこと』、向田邦子『父の詫び状』など心に残る名作がいくつもある。でも、生きている父と娘が手紙のやりとりをして、それを書籍化するというのはかなり珍しいことではないかと思う。
1年ほどかけて手紙を取り交わしたが、胸を衝かれたのは、忘れがたい出来事として私が記憶していたことのいくつかについて、娘の記憶がぜんぜん違っていたことである。あまりに違うので頭が混乱した。過ぎてしまったことなので、確認のしようがない。古希に至って、自分が経験したと思っていたことがほんとうのことなのか、偽造記憶なのかわからなくなったのである。人間というのは自己都合で記憶を書き換えてゆくものだということは知識としては知っていたけれど、まさかわが身に起きるとは思わなかった。間の抜けた話である。
でも、不思議なもので、自分がほんとうは何を経験してきたのかわからなくなってからの方が話は弾んだ。「僕はいったい何をしてきた、どんな人間なんでしょう」と私が訊(き)くと「お父さんは、これこれこういう人だよ」と娘が教えてくれる。
「よく父娘で対話が成り立ちましたね」といろいろな人に驚かれた。どうしてだろうかと考えて、理由を一つ思いついた。それは少女マンガを二人で読んできたことに関係があると思う。娘が「これを読め」と言って持ってきたものを私がほいほい読むという関係だった。少女マンガには娘たちが「こんな父親だったらいいな」という夢が控えめに描き込まれている。『あさりちゃん』も『天才柳沢教授の生活』も『よつばと!』も『Papa told me』もそうである。たぶん私はそれらを読むことによって、それと知らずに「娘から見て好もしい父親像」を学習したのである。日曜ごとにふたりで少女マンガを読んで過ごした時間は無駄ではなかったということである。
※AERA 2020年6月29日号