半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「目的なき生き方をするため人は生まれてくる」
セトウチさん
日に日に難聴が激しくなって、自分の声まで聴き取れなくなっています。昔みたいにセトウチさんと長電話など過去の話。この前、セトウチさんからかかった電話が相手が誰だかわかりませんでした。また耳に入る言葉が少なくなった頃から、話す言葉と書く言葉の数もうんと減りました。物覚えが悪いとか記憶が喪失したというようなものではなく、世の中の言葉の数が激減したという感じです。空中に言葉が蔓延(まんえん)していて、その一字一句を拾ってしゃべったり、書いていた、その空中の言葉の数がカスカスになってしまっているのです。耳に入る言葉がなくなっていくように、空中に浮いていた言葉がフッ、フッと消えてしまうのです。その消える数が毎日物凄(ものすご)い数です。ですから残った数の言葉だけで話したり書いたりするしかないのです。
まあ、幸い物書きではないので商売にはさしさわりはありません。でも言葉の消滅現象は一方で期待もあります。幼児が少ない語彙(ごい)で、意志を伝えたりしますが、時には大人も驚くほど、少ない言葉でズバリ本質をつきますね。そうなればいいんですが。大人は語彙が多すぎて、つい理屈ばかりが目立って何が言いたいのかさっぱりわからないことが多いです。言葉が多いことは人間を不幸にしているような気がします。ありったけの言葉を使って何かを語ることで物事を複雑にしています。機械文明が発達したことが人間の繁栄の追求のように思われているように言葉の多発、露出が人間の幸福の追求にどのくらい貢献しているんですかね。
美術も同じような運命をたどっているように思います。僕の中から言葉が毎日何百個も消えていくことが、単に幼児回帰現象だとすれば、それほど不幸だと思いません。多用される言葉の量が物事を複雑にしていることは確かです。と同じように美術もどんどんテクノロジー化され、複雑化して、言葉を多用しなければ理解できないような領域へと向かっています。