TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は、阪本順治監督と歩いた東京について。
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映画は街で作られる。ならば映画監督にはどう映っているのか。コロナ禍で揺れる東京。だからこそこの街に愛おしさが増し、同世代で長い付き合いの阪本順治監督と原宿で待ち合わせた。
大阪生まれの彼は実家の前が映画館だった。だが、監督を目指した理由はそこではない。「将来何を職業にしようかを考え、簡単になれない職業なら、50、60歳になっても叱られない。それで映画監督を選んだ」
しかし、本気になると燃えた。大学受験をきっかけに東=江戸を目指す。「監督になるには学生運動を経験していた方がいいのでは」と横浜国立大学に入学。運動の傍ら映研に入り、石井聰亙(現・岳龍)の事務所を訪ねて『爆裂都市』のスタッフに。「睡眠2、3時間でも毎日楽しかった」
デビュー作『どついたるねん』の公開はゲンを担ぎ「平成元(1989)年11月11日」とした。原宿に特設ドームを設営し、「荒戸源次郎プロデューサーの人脈でコラムニストに書いてもらった」と宣伝は自分たちで。「でも原宿でボクシング映画。この街を行き交う人とはあまりに種類が違う」と不安も。主役の赤井英和は「浪速のロッキー」と呼ばれる人気プロボクサーだったが、映画界では新人。それが奏功したのか「見たことのないカッコいい男だと話題になって何度も足を運んでくれる女性のお客さんが増え」、異例のロングランに。長い列を眺め、「ヒットするというのはこういうことか」と思った。
原田芳雄、石橋蓮司、佐藤浩市。付き合いの深い俳優は東京生まれが多い。「信頼関係が深くなることはあってもなれ合いはない。かえって怖いくらい。『お前、ダメになったな』と同世代の浩市君に言われたこともあります」
上京の時、東京は冷たいぞと言われた。
「でも東京は地方人の吹き溜まりだから。下町を除けば挨拶しないし、醤油の貸し借りがないのは当たり前です。ぎすぎすしているというか、関係性もお互い他人でしかないひりひりした環境がモノを生む。東京は何かを発想する場所なんです」