撮影所の人々を描いた映画「蒲田行進曲」を彷彿させる。
しかし「蒲田行進曲」の製作者は角川春樹氏。
「東映出身の深作欣二監督によって、東映京都撮影所で撮られたんです。蒲田の街でのロケもないんですよ」
と悔しがるのは、7年前から始まった蒲田映画祭プロデューサーの岡茂光さん。
蒲田切子の工房を経営する鍋谷孝さんは、かつての松竹映画は街でのロケが多かったと語る。
「小津監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(32年)では、蒲田駅近くの車両基地で子どもたちが遊ぶシーンが出てきます。車両基地は『砂の器』(74年、野村芳太郎監督)にも使われました。小津監督は撮影所が大船に移ってからの『早春』(56年)でも、蒲田駅周辺で撮影をしています。東急池上線沿いの道路を、岸惠子さんが駅に向かって歩くシーンが印象的です」
ロケ地として利用するだけではない。蒲田に住んだり、街でくつろいだりする関係者が多かった。
「今、駅の東口にあるみずほ銀行のあたりには、かつて明治製菓の喫茶部があり、小津監督らがよく集まっていたそうです」(鍋谷さん)
監督や脚本家たちは、揃いのブレザーを着たり、ワイシャツの胸にイニシャルを入れたりした。小津監督は「AUZ」、清水監督は「43Z」だったと資料に残っている。
大田観光協会常務理事の栗原洋三さんによると、
「女塚にあった女優の川田芳子の家はとても豪華で、川田御殿と呼ばれていました」
子役だった高峰秀子は5歳のとき、川田邸に夕食に招かれた。その様子を後にこう記した。
<自宅に行くと、川田芳子は日本間でゾローっと振り袖を着ていて、母親が側で何から何まで世話を焼いていた。それを見て、『この人はダメだな』と思った>
往年の大女優の浮世離れした姿が目に浮かぶ。
とはいえ、つつましい暮らしをする女優もいた。前出の岡さんは、幼少期を蒲田で過ごした俳優の小沢昭一から面白いエピソードを聞いた。
「銭湯の女湯に入ったら、女優さんがいたそうです。出てきた小沢少年は近所のおじさんたちに囲まれ、『小遣いをやるから、女優の様子を聞かせろ』と頼まれたとか(笑)」