作家の三島由紀夫が謎に満ちた割腹自殺を遂げてから、11月25日で50年が経過する。三島と親交があったシャンソン歌手の美輪明宏さんは週刊朝日2000年12月29日号でのインタビュー記事で、三島との思い出や、悲劇の直前に交わしたやりとりについて語っていた。当時の誌面を再掲する。
【衝撃写真】50年前の今日、陸上自衛隊東部方面総監部バルコニーから演説する三島由紀夫の姿
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三島さんについて言えることは、あれほどの天才でも少年時代に受けた教育のトラウマからは一歩も逃れることができなかったということね。彼は非常に鋭利で理論派だから、一見、論理的に自己分析をしているように見えていたのね。私もそう思っていた。でもやっぱり、渦巻きには、渦巻き自身の姿は見えなかったんだなと思います。どう流れていっているのかがね。
私と三島さんとの親交は一九五一年、小説「禁色」の舞台にもなり、当時私がアルバイトをしていた銀座のバーで出会ってから。それから、シャンソン喫茶「銀巴里」のステージを見に来てくださったり、六八年には大ヒットした三島さん脚本の舞台「黒蜥蜴」に私が主演するなど、彼が死ぬまで続きましたね。
三島さんと待ち合わせをすると、私がどんなに早く行っても、必ず彼が先にいるわけですよ。つまり、人を待たせるというのが嫌でね、待っているほうがいいという人だった。まったく、第二次世界大戦前の「日本少年」や「少年倶楽部」などの少年雑誌に出てくるような人だった。儒教じゃないけれど、君に忠、親に孝というような模範的で道徳的な、心優しくすがすがしくというような、少年のいちばんいいころの心を持っていた。男が社会的ないろいろな手あかがつく以前の、少年の心をあの年になるまで持ち続けていた人なんですよ。
彼には文壇向きの、営業用の「顔」というのがありましたね。尊大ぶらなきゃいけないとか、作家ぶらなきゃいけないとか。そうしないと、なめられちゃうんですよ、出版社などの人たちに。そういう駆け引きなんかはおできでしたね。そうした人たちが帰った後では、おどけちゃって、首をすくめて、ぴょんと舌を出したりして。まったく子供みたいでしたよ。
「自分は文学界には友達はいない」
とおっしゃっていました。