批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ふたたびコロナの話題がマスコミとネットを埋め尽くすようになった。8日に首都圏に緊急事態宣言が再発令され、14日には関西などにも拡大された。医療崩壊を避けるため、感染拡大防止が喫緊の課題であることはまちがいない。
けれども問題は対応が近視眼的なことである。無症状者が多く感染力の高いコロナは封じ込めがむずかしい。多くの国が失敗している。ひとの動きを止めれば感染の勢いは弱まるが、これは原理的に時間稼ぎにすぎない。年単位で見れば拡大は不可避だし、ワクチンの効果も未知数だ。結局のところ感染者増に耐えるように医療体制を変えるしか道はない。けれども政府も専門家も肝心のその道筋を示さず、いまだけ我慢だと叫び続けている。
これは建設的な対策といえない。今回の宣言は昨年春の発令に比べて自粛効果が低く、政治家や専門家のあいだには苛立つ声が強い。自民党は18日に、飲食店の営業時間短縮命令違反に過料を、感染者の入院拒否に刑事罰を与える関連法改正案を了承した。2月初旬の成立が目指されているが、それでも新規感染者数が減らなければ、さらなる罰則強化も検討されるだろう。
しかし重要なのは、繰り返すが、目の前の数字に一喜一憂することではなく、新たな医療体制を考えることのはずだ。なぜそのような議論が中心にならないのか、理解に苦しむ。
加えて問題なのは、少なからぬ国民が統制強化を歓迎し始めていることである。NHKは15日のニュースで、感染症対策のため個人の自由を制限することに対して、86%が「許される」と回答したと伝えた。しかし安全か自由かを選択させるこの問い自体が、ごまかしのうえに成立していないか。個人の自由を制限してコロナが消えるのならば、二者択一は成立する。実際はそうではない。短期間我慢すればコロナ前に戻れるという発想そのものが、もはや現実逃避なのだ。
感染者がこれ以上増えたら既存の医療は存続できない。それはたしかに悲劇だ。でもそれしか道がないのであれば、その前提で前に進むしかない。残酷な現実にそろそろ向かい合うべきではなかろうか。
東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数
※AERA 2021年2月1日号