


ジャイアント馬場さんが亡くなって今年で22年。持ち前の経営手腕で支えた妻・元子さんとの間で交わしたおよそ1千通のラブレターから、一冊の本が生まれた。「東洋の巨人」の、知られざる愛の物語だ。AERA2021年2月8日号の記事を紹介する。
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ジャイアント馬場が全日本プロレス旗揚げ当初にまとった鳳凰のガウンは、生前の彼がここぞという大一番で着用したことで知られている。人間国宝の手によるという見事な刺繍が施されたこの生地は、元来ガウン用でも、馬場本人のためのものでもなかった。これは彼と妻・元子の結婚式で、元子が着る花嫁衣装のために用意されたものだ。
1960年代半ばから交際していた馬場と元子は何度も挙式と披露宴の計画を立てたが、婚姻届の提出は82年、披露宴は83年まで持ち越されることになった。70年代初頭には二人の関係を公にすることもできず、お披露目の機会を失った花嫁衣装の生地を、馬場がガウンにしたのである。
プロ野球のピッチャーからプロレスに転向した馬場は、61年7月からのアメリカ武者修行時から2メートル9センチの体躯を生かして頭角を現し、やがて日米を股にかけたスター選手として活躍を見せた。72年には自らの団体・全日本プロレスを設立。以後は社長レスラーとしてリング内外ともに牽引していくこととなる。
それほどのスターレスラーであれば、結婚発表は盛大に行われてもおかしくないところだが、馬場の場合は難しい問題が立ちはだかっていた。元子が三女として生まれ育った兵庫・明石の良家にとって、娘とプロレスラーの結婚はとうてい認められるものではなかったのである。
■母の反対避けて米国へ
父が巨人軍の後援に関わっていた縁で知り合った馬場と元子だったが、結婚となると話は別。まして馬場はその後野球から離れ、プロレスラーという危険な職業に就いている。2人の交際に、父はやがて理解を示したが、母はどうしても許容できなかった。母の猛反対から逃れるために、元子はアメリカで暮らす道を選択。馬場とは遠距離恋愛の状態となった。
現在のようにネットはなく、国際電話も高額な時代。日本とアメリカに離れた2人をつないだのは、手紙だった。特に元子は、アメリカから毎日のように手紙を書き、便箋にびっしりとしたためた思いの丈を届け続けた。馬場は元来筆まめとは言えず、国際電話に頼ることも多かったが、元子に再三せがまれてある時は東京から、ある時は巡業先から、時には遠征先の海外からも返事を出した。