1991年、僕が49歳のとき、金丸さんは経世会会長でした。総裁選が近づいてきたある日、突然、金丸さんから「総理になれ」と言われました。そのときのライバルは宮沢喜一元首相、渡辺美智雄元蔵相、三塚博元運輸相。経世会は最大派閥で、宮沢さんも渡辺ミッチーさんも、僕が出馬するなら協力すると言ってくれていましたから、あのとき、「はい」と言えば、総理になっていました。
しかし、宮沢さん、渡辺さんの心境を思うと、若い僕が彼らを飛び越えて、いきなり総理にということはできないという気持ちでした。それと、僕はその少し前に心臓を患ったばかりで、また、精神的にも準備ができていなかったという面があり、固辞しました。そうしたら、金丸さんからホテルの部屋に呼び出され、「お前、何でイヤなんだ。政治家なら、たとえ3日間でもいいから総理になりたいと願うものなのに。全部、俺が支えてやる。何の心配もないから」と口説かれて、それはまあ大変でした。金丸さんにはえらく評価してもらい、あのときのことを思い出すと今でも恐縮します。
僕が自民党を離党したのは93年のこと。僕と当選同期の梶山静六元官房長官の対立が背景にあるとして「一六戦争」などと報じられましたが、あれはマスコミが名付けたことであって、本質は僕と竹下元首相との戦いでした。経世会を半分に割ったんですから。
自民党を離党する前、「改革フォーラム21」(自民党羽田・小沢派)所属議員44人にこう言いました。「自民党を離党する以上は、必ず政権を取ってみせる。だからぜひついてきてもらいたい」。みんな、その言葉を聞いて、最終的に一人も欠けずについてきてくれたというのが、僕の最大の自慢です。派閥を割って、当時、自民党を離党するというのは大変な勇気のいることでした。
自民党を離党して「新生党」を結成しました。当時、野党の中に日本新党の細川護煕さんがいて、自民党との連立を狙っていた。特に新党さきがけの武村正義さんも自民党と組みたがっていました。とにかく細川さんをこちらに引っ張らないといけない。それで細川さんを口説きに行ったわけです。