ちなみに、創作におけるこうした問題は昔からある。ドラマではなく文学の話だが、志賀直哉は芥川龍之介の作風について本人に直接、こんな批評をしたことを書いている。
「芥川君の『奉教人の死』の主人公が死んで見たら実は女だったという事を何故最初から読者に知らせて置かなかったか(略)筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、作中の他の人物同様、読者まで一緒に知らさずに置いて、しまいで背負投げを食わすやり方は、読者の鑑賞がその方へ引張られるため、其所まで持って行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思うと私はいった。読者を作者と同じ場所で見物させて置く方が私は好きだ」(沓掛にて――芥川君のこと――)
芥川はこれを真に受けてしまい、筋の面白い小説をだんだん書かなくなっていく。が、現代の読者にとって、志賀が得意だった現実的かつ写実的な小説はいささか退屈だろう。芥川のほうが今もけっこう読まれていることを思うと、やはり筋の面白さは大切だし、背負い投げを食わされるのも快感なのだ。
理想に基づいた約束事にこだわりすぎると、創作は窮屈になる。また、たとえツッコミどころ満載でも、味わう側はそこにとらわれすぎないほうがいい。ワクワクしながら楽しんだもの勝ち、なのではないか。
そんな考え方ができたことで、このドラマはどんどん楽しくなった。なんでもありの悲恋ものとして、それこそ海の波に身を委ねるように見ることにしたのだ。
たとえば、綾野扮する倫太郎と大谷亮平扮する兄の光太郎が自宅で酒を酌み交わす場面(第8話)。ウイスキーをビールのように注いでいるのが気になったが、それも一種の「盛った」表現なのだろう。
そういう意味で、このドラマには漫画やアニメに通じる「飛躍」の面白さがある。体が宙を飛んだり、ペシャンコになったり、そんな表現が実際に出てきたわけではないものの、そういう二次元ならではの世界に近いものを感じた。実写ながら、ファンタジーにかこつけてギリギリを攻めてみた、ということだろうか。