西武との入団交渉の後、東尾修監督(右)とともに記者会見した横浜高校の松坂大輔。東尾監督が200勝を挙げた時のボールを持ち、笑顔を見せる=1998年12月 (c)朝日新聞社
西武との入団交渉の後、東尾修監督(右)とともに記者会見した横浜高校の松坂大輔。東尾監督が200勝を挙げた時のボールを持ち、笑顔を見せる=1998年12月 (c)朝日新聞社
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東尾修
東尾修

 今月7日、愛弟子の今季限りでの引退発表を受けた東尾修氏。東尾氏が、松坂大輔投手と交わした約束を明かす。

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 西武の松坂大輔投手が現役引退を決めた。現在40歳で9月に41歳になる。高校時代からあれだけ投げて、日本を熱狂させ、30歳を超えてからは故障の連続だった。私が西武監督時代に入団した選手。私が松坂のプロ入り後の師匠のような位置づけになっているが、大輔は何て思っているかな。

 7月6日の夜に電話をもらった。「右手の指の感覚がなくなった、もう投げられません」ということだった。彼の西武入団交渉の時に渡した、私の200勝のボール。大輔の200勝ボールで返してくれと当時話していたが、日米通算170勝か。本人には「ボールは持っといてくれ」と伝えた。私のボールを手に、いつか共に戦ったことを思い出してくれればいい。「お疲れさん、ここまで長かったな」と伝えた。これが、私の率直な思いだ。

 最初に大輔を知ったのは1998年の夏だった。当時の西武・堤義明オーナーの鶴の一声、「松坂一本で行け!」との号令で、球団の編成から「松坂の投球を見てください」と言われた。西武のナイター前の宿舎で甲子園での投球を見ていた。見た瞬間にわかった。とにかく体の強い子だ、と。

 同年11月20日のドラフト会議。競合したのは、その年の最後までパ・リーグの覇権を争った日本ハムと、日本シリーズを戦った横浜(現DeNA)だった。ペナントレースでは、日本ハムを最後にとらえて逆転優勝。日本シリーズでは、横浜に敗れたため、くじ順は「日本ハム、西武、横浜」だった。私は箱の中の封筒のうち、事前に決めていた右側の封筒をとった。日本シリーズで負けたから、横浜よりも先にくじを引くことができた。

 入団交渉では、両親、大輔に三つのことを約束した。「責任を持って200勝させます」「客寄せパンダにはしない」「日本シリーズの第1戦に先発させる投手にする」──。全部達成、とはいかなかった。私の指導力不足なのかな、と思う。

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