日本でデビューする前年、舟木さんは日本の当時の音楽祭のステージを見せたいと母親とテレサを呼んだ。そこで日本の歌手が賞をもらう授賞式を現場で見せた。
「華やかなシーンに感動したテレサは『私もあのステージに立つ!』と小さな声でしたけど、そう宣言しました」
舟木さんはテレサの芯の強さを感じた。
翌74年、元ポリドール社員の筒美京平の作曲による「今夜かしら明日かしら」で鳴り物入りでデビューした。しかし、売れ行きは全く期待はずれであった。舟木さんは慌てた。
「父親にまかせろと啖呵を切ったので、なんとかしないといけないと焦りました」
とにかく新人賞を取らなくてはならない。そのために7月までにもう一曲楽曲を発表することにした。
現場の音楽ディレクターは「ポップな路線ではなく演歌を歌わせたい、そうでなければ担当を降りる」とまで主張した。
「じゃ、まかせると言いました。現場の言葉を信じました」
そこでレコーディングした楽曲「空港」で第16回日本レコード大賞新人賞を獲得したのだ。
「これで父親に対して面子が保てたとホッとしました。新人賞は一生に一回きりですからね」
営業活動は渡辺プロダクションに依頼していた。テレサの人気が高まるに連れ、いろいろな方面から声がかかった。
■第二のふるさと 三島町の町民に
「日本では新人ですからね。それに従い全国を飛び回っていました」
その中で大きな出会いがあった。
77年にテレサは「ふるさとはどこですか」という曲をリリースした。福島県三島町が全国に先駆けて74年から「ふるさと運動」をしていることを知り、キャンペーンで77年3月16、17日に三島町を訪れた。そこから町と深い付き合いが始まった。
「三島町までかなりの時間がかかったと思います。よく来ていただきました」
そう話すのは、三島町の編み組細工などを扱う三島町生活工芸館の五十嵐義展さんである。テレサ・テンとの絆を受け継いで次の世代に伝えている。五十嵐さんは当時のことは知らないが、町民たちがテレサ・テンへ強い思いを持っているのを感じている。