銀座四丁目停留所は惜別の群衆で溢れ、多数の警察官が交通整理にあたっていた。午後11時30分、装飾電車の殿を務めた5505号が銀座四丁目を通過。これが幼少のころから憧れた5500型の見納めとなった。(撮影/諸河久:1967年12月9日)
銀座四丁目停留所は惜別の群衆で溢れ、多数の警察官が交通整理にあたっていた。午後11時30分、装飾電車の殿を務めた5505号が銀座四丁目を通過。これが幼少のころから憧れた5500型の見納めとなった。(撮影/諸河久:1967年12月9日)

 竹下夢二の研究家として著名だった岩波書店専務の長田幹雄氏(1905~1997)は「12月9日はたまたま漱石忌。雑司ヶ谷の漱石のお墓へお参りした後日本橋-新橋の間を二往復しました。佃の渡しの最後の日にも乗りましたが、明治は遠くなった」と、朝日新聞にコメントを寄せている。

都電が見つめた東京の進化

 1967年12月10日に廃止されたのは、銀座線(本通線)に絡む1・4・40の三系統と、2・3・5・6・8・37の六系統に及んだ。この第一次撤去計画が契機となって都電の撤去が進捗し、都内に構築された路面電車のネットワークは次々に失われていった。

 5年後の1972年11月に23・24・28・29・38の五系統が廃止され、27系統が短縮された。存続が決まった27系統の一部と32系統(早稲田~三ノ輪橋/1974年10月から荒川線に改称)を除いた都電撤去計画は終了した。

 地下鉄の普及で利便性が高まったことは間違いない。今も常に安全運転を心がける鉄道関係者の皆様には、感謝の念しかない。だが、乗車と降車の駅を「点と点」で結ぶように走る地下鉄と異なり、都電や各都市の路面電車は高度経済成長期に急激に進化する街並みを見ながら、まるで「線を引く」ように走っていた。そんな車窓からの光景が記憶に残っているからこそ、街にも愛着がわいたのではないかと考えている。バスとは異なる雰囲気を味わえた都電。当時を生きた人にも、生まれていなかった人にも、「昭和の東京」をこの連載で少しでも感じていただけたら幸いである。

 ありがとうございました。

■撮影:1967年12月9日

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