◆アドバイス受け、日中関係前進へ
何でこういうことが起きてしまったのか。菅さんの解説は、一つは野党が弱すぎるためだという。もう一つは小選挙区制になって、自民党議員は執行部から公認されないと当選できないので、多くが執行部のイエスマン、安倍さんのイエスマンになった。だから誰も、批判ができなくなった。
実は安倍さんてね、しっかり言えば、しっかり動く政治家でもあるんだ。第1次政権のとき、そう感じた。小泉純一郎さんが緊張感を高めちゃった日中関係を前向きに動かしたのが、実は安倍さんだったんだよね。
04年、小泉内閣4年目のこと。小泉さんに「ポスト小泉は誰かなあ」と聞いたら、小泉さんが「安倍しかいないんじゃないか」と明かした。これは「ポスト小泉」の最有力者だ、ということで06年6月、僕は官房長官だった安倍さんにこう話した。
「あなたは首相になったら米国へ行きたいと思っているようだが、米国じゃなくて中国に行くべきだ。小泉さんが毎年、靖国神社に参拝して日中関係が最悪だから、新しく関係をつくるべきだ」
当時の胡錦濤国家主席と会うべきだと助言したら、相手が会うなら「行く」と安倍さんは言った。
さっそく、東京都内の中華料理店で当時、外務次官だった谷内正太郎さんを引き合わせた。谷内さんは「せっかく行くのならば、戦略的互恵関係を結んでください」と説明した。それで、安倍さんは首相になって最初の外遊先に中国を選び、戦略的互恵関係を結んだ。
そもそも、僕と安倍さんとの出会いは2回目の当選の頃。根本匠(N)、安倍(A)、石原伸晃(I)、塩崎恭久(S)を中心とした勉強会、いわゆる「NAISの会」だった。会では石原や塩崎がもっぱらしゃべり、安倍さんは静かだったから印象はあまりなかった。とても素直で姿勢がいいと思った。やっぱり、おぼっちゃんだね。
安倍さんの家庭教師だった平沢勝栄さん(現・自民党衆院議員)は「両親からは『勉強を見てやってくれ』と言われなかった。『遊んでやってくれたらいい』と言われてた」と振り返っている。両親も、人間としていい人柄に育てたかったようだ。