特に「忠」は、徳川時代に入って朱子学が官学となってからの概念となった。徳川家に忠実であれ・徳川家に弓を向けるのは謀反である、という考え方で武家社会を統制しようとしたからだ。江戸時代は、この「忠」に最も反したのが「光秀」という捉え方をしたのである。
一方で、有職故実を知る光秀には鎌倉時代の『貞永式目』の内容が頭にあったとも思われる。この法令には「器量(能力)の劣る支配者への謀反・下剋上はあってもよい」という考え方がある。光秀はこうした古典(武士の法令)をも、信長討ちに当たって自らの行動の正当化に使ったであろう事は十分に考えられる。つまり、光秀には信長討ちは「悪」ではなく「正義」だという意識があったと思われる。(これは本能寺の一因「信長非道説」を裏打ちする考え方であろう)。 だが、その後に来る秀吉・家康の天下では、光秀の信長討ちは「悪」と規定される。いわゆる「本能寺の変」は、下剋上が当たり前の世の終焉を告げる出来事でもあったといえよう。
武士にとっては謀反人なれど
江戸の庶民には愛された光秀
江戸時代になって、光秀は謀反人という見方をされるようになったが、それは(江戸時代の)武士道の世界での見方であった。 これが庶民・一般町人の世界になると、「謀反人・光秀」を取り巻く景色が変わってくる。現代のテレビ・映画・小説などに当たる庶民文化は、人形浄瑠璃・歌舞伎・絵草紙などの類であり、こうした「媒体」によって、江戸の庶民文化は芽生えた。「明智光秀」への一般市民の思い入れは、これら媒体によって増幅した。光秀を扱った浄瑠璃は『本朝三国志』(近松門左衛門)『祇園祭礼信仰記』『三日太平記』(近松半二)など10作品以上に上る。また後に歌舞伎の当たり狂言になる浄瑠璃『絵本太功記』(近松湖水軒など合作)は、タイトルこそ「太閤記」だが、本当の主人公は光秀である。また『時桔梗出世請状』(鶴屋南北)は通称「馬盥の光秀」といい、現代でも演じられる歌舞伎の名作である。