本来チームスポーツでは、試合中に先輩だからと過剰に気を使う人がいるチームは勝てないんです。いざというときには自らの判断でプレーを選択する自立した人間が集まるからこそ、勝利を掴みとれる。ラグビー協会でも、実績のある元選手が理事を務めているのに、組織に入った途端に顔色をうかがうばかりになるのはなぜか、それが不思議で仕方ありません。
■世間が求めるイメージ
──汚職事件について、選手から声が上がらないことに、平尾さんは憤りを感じているという。
平尾:たとえるなら、自分の家が火事になっていて、かなり燃え広がっているような状態だと思うんです。今の状況がいかに深刻なのか、スポーツ関係者は薄々わかっていると思います。なのに、自分の競技団体への飛び火を恐れているのか、遠くから様子をうかがうだけで何もしない。そのくらいスポーツビジネスの闇は深い。
──発言しない背景にはスポンサーや世間がアスリートに求めるイメージも影響していると指摘する。
平尾:日本社会には、スポーツ選手に対してある種のさわやかさを求める風潮がありますよね。勝っても驕(おご)らず、負けても潔しとするその態度が美しいし、健気で一生懸命に困難を乗り越える姿に感動する。そこに社会的発言や政治的発言はそぐわない。スポンサーにとっては、さわやかな存在でいてくれたほうが扱いやすいし、お金になる。いわば選手を商品に見立てているわけです。ただ、アスリート自身もそれを自覚したうえで、利用している面もあります。
昨今、アスリートのセカンドキャリア教育が盛んですが、サッカーや野球をはじめトップ選手以外は引退後にどうやって食べていくかは死活問題です。何か発言することでイメージが悪くなり、スポンサーが減ったり、事務所に所属できなくなることは避けたい。ここからスポーツを利用して生きていかねばという考えになり、本質的な問題につい見て見ぬふりをしてしまう。
それに、たとえスポーツ界の構造に違和感を持っても、どう対処していいかわからなければモヤモヤは募るばかりです。だったら違和感を受け入れて生きていくほうが楽だとなってしまうのでしょう。
■外に目を向けてほしい
──選手たちの「当事者意識の欠如」の先にあるものは何か。
平尾:当事者なのに何も言わないというのは、アスリートやスポーツそのものの価値を下げることと同義です。コロナで社会が大変な状況に陥っていたにもかかわらず、意見すら言えないのはやはりおかしい。当事者意識が欠如したアスリートばかりでは、スポーツ自体が社会から見向きもされなくなる。それを懸念しています。
そうならないためにも、アスリート自身が変わり、また、スポーツ関係者も危機感を持たないといけない。トップを目指す選手が意見できる空気をつくっていかなければなりません。
アスリートには、スポーツの外側に目を向けてほしい。さまざまな職種に就く人や、そもそもスポーツに興味がない人とも接する。僕自身もラグビー以外の世界を見たことで、自分を客観視することができました。チームメートはもちろん大切ですが、競技一本というのは美談でもなんでもないことを伝えたいです。
(構成/編集部・福井しほ)
※AERA 2022年10月3日号