ハルコさんの母アイヅルさんと姉ソエさん(ともに故人)も、63年に東京に出てきた。アイヅルさんは「宝島村一家」の母のような存在となった。あちこちにあった会社の寮では、4畳半一間に家族4人が住むことが多かった。アイヅルさんも工場の上の寮に住み、みんなの子どもの面倒をみたり独身者に食事を作ったりした。
「宝島村一家」に限らず、会社関係者ら多くの人が出入りした。アイヅルさんを受け継いだハルコさんも面倒見がよく、今年も300枚の年賀状を送っている。
ハルコさんの11人の孫の一人で、佐賀県で放送記者をしている千恵さん(25)は大学4年間を小石川の家で過ごした。
「おばあちゃんのうちのキッチンルームには、いつも知らない人が座っていた」
昨夏にかけて「島の精神文化誌」を連載した順天堂大学講師の土屋久さんは、こう話す。
「『東京宝島村』は宝島の方々の、協働・団結・勤勉といったエートスの結晶です。そうした心の習慣が時代と合致し、皆さんの繁栄につながっていったのだと考えます」
■沖縄戦の映像を見て涙
いま、社長は清さんの次男になり、会社も「セイコーバインダリー」と名前が変わって平成の半ばに埼玉県新座市に移転した。従業員を宝島から雇うこともなくなった。
それでも、宝島出身の関係者はしばしば会って昔話に花を咲かせる。この6月にもほぼ女性ばかりの数人が集まり、「Lara物資」が話題になった。米国の民間団体が終戦直後、日本に食料や衣料を提供したのだ。
「缶詰とか、ハイカラな洋服や赤ん坊用もあった」
「七面鳥なんか初めて食べた」
ハルコさんも米軍統治下のトカラ列島について、「私は小中学生でしたから、楽しい思い出しか残っていません」と振り返る。中学2年時には「密航船」で鹿児島市に修学旅行に行った。
ただ、毎朝のように見るNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」で、沖縄戦の映像が出てくると涙が止まらない。米軍が宝島に上陸することはなかったが、戦争末期には4、5家族がまとまって山中の洞のそばに小屋を建てて住んだ。空襲警報が鳴るとすぐに洞の中へ。たまに集落に戻ると、家の壁に機銃掃射の跡があり、庭には爆弾が落ちた大きな穴があった。従兄は沖縄戦で戦死した。